第七十五話:壁の出現「敗北の予兆」
第七十五話:壁の出現「敗北の予兆」
銀狼族の放つ圧力が、戦場の大気そのものを変質させていた。
サキモリの脳内カウントダウンは、無慈悲に「残り五〇分」を告げている。視界は鮮血の色に染まり、肺を焼く熱い呼気だけが、彼がまだ「生物」として機能していることを証明していた。
「――構造の、解体」
サキモリは、蓄積された疲労の全てを加速に変換し、地を蹴った。
狙うは、銀狼族の喉元。これまで数千の魔族を、まるで紙細工のように切り裂いてきた、一点の淀みもない最速の突きだ。
だが。
ガキンッ、と。
耳を劈く金属音が響き、サキモリの腕に凄まじい衝撃が跳ね返った。
彼の放った『灰色の槍』の先は、銀狼族の喉元に届く前に、その黒鉄の槍の柄によって完璧に遮断されていた。
「……止まった?」
サキモリの瞳が、驚愕に揺れる。
それは単に防がれたのではない。銀狼族は、サキモリの攻撃の「構造」を完全に見切り、力のベクトルが最も脆弱になる瞬間に、その槍を置いたのだ。
「――っ!」
サキモリは即座に槍を引き戻し、二撃、三撃と追撃を繰り出す。
だが、そのすべてが黒鉄の壁に阻まれ、火花を散らす。
人類の限界を超えたスペックを持つ古代種。その個体性能を前に、サキモリの「効率」は初めて壁にぶち当たった。
(……致命的な計算ミスです。この個体は、今の私の出力では、殺しきれない)
サキモリの脳内で、冷徹な論理が結論を弾き出す。
今の彼は、穏やかな守り人としてのリミッターを外せていない。仲間の無事を祈り、自身の生存を優先し、一秒でも長くこの場を維持しようとする。その「守りの構造」が、攻撃の純度を決定的に下げていた。
ドォッ!
銀狼族の反撃。槍の石突きがサキモリの腹部を捉えた。
軍服が裂け、内臓を揺らす衝撃にサキモリは数十メートルも後方へと吹き飛ばされる。
「ゴホッ……、ガハッ……!」
血の池に沈みながら、サキモリはかろうじて槍を支えに上体を起こした。
膝が笑い、視界が二重にブレる。もはや、計算上の活動限界を待たずして、肉体が崩壊を始めていた。
銀狼族は追撃せず、ただ悠然とサキモリを見下ろし、深みのある声で嘲笑った。
「……脆いな、人間。貴様の槍には『理』はあるが、魂を焼くような殺意が欠落している。何を守ろうとしているかは知らぬが、その優しさが貴様の牙を鈍らせているのだ」
銀狼族の槍が、ゆっくりとサキモリの喉元に向けられる。
サキモリはその冷たい切っ先を見つめながら、不意に、この場にはいない仲間たちの姿を幻視した。
盾を砕かれ、絶望の中で押し潰されるアリサ。
矢が尽き、黒い魔族の物量に追い詰められるエレン。
魔力が枯渇し、血の混じった涙を流しながら笑うルミナ。
(……ああ。私の……失敗です)
サキモリの指先から、力が失われていく。
一対一〇万。古代種の蹂躙。そして、四国同時に進行する死の連鎖。
管理者のプライドが、そして「穏やかなサキモリ」としての限界が、今、完全に粉砕されようとしていた。
(第七十五話:完)




