第七十二話:最適解の崩壊「ノイズという名の呪縛」
第七十二話:最適解の崩壊「ノイズという名の呪縛」
バルバロイ国境の死線。サキモリの周囲には、すでに彼が積み上げた「肉の城塞」が築かれていた。
足場は滑り、視界は魔族の返り血で赤く染まる。それでもサキモリは、精密機械のように槍を振るい続けていた。
「死なない・避ける・殺す」
脳内に構築された三点思考のループ。感情を排し、ただ「管理」という名の方程式を解き続ける。そのはずだった。
「報告ッ! 南、アルタ王国! ルミナ殿、魔導士隊の壊滅を受け、単身で前線へ! 消耗が激しく、意識が混濁している模様!」
後方の伝令兵が叫ぶ声。それが、サキモリの脳内パネルを激しく叩いた。
本来、管理者の耳に入るべきは「敵の数」や「残弾数」といった純粋なデータのみ。だが、今のサキモリにとって「ルミナ」という名は、単なるデータではあり得なかった。
(……ルミナ先生が、単身で? 非合理的だ。彼女の魔力残量では、あと数時間も持たないはず……)
思考の海に、波紋が広がる。
その瞬間、サキモリの視界の端で、一匹の魔族が錆びた剣を振り上げた。
普段の彼なら、その初動の「構造」を見抜き、剣が振り下ろされる前に喉笛を貫いているはずの距離。
だが。
(……アルタの地形なら、退路は……いや、今は目の前の……)
コンマ数秒。
人が瞬きをするよりも短い、刹那の迷い。
「仲間を想う」という、かつてのサキモリなら持ち得なかった人間らしい「優しさ」が、この極限の戦場においては、致命的なプログラムのバグ(脆弱性)となって彼を襲った。
「――っ!?」
鋭い金属音が響く。
サキモリは辛うじて首を捻ったが、魔族の刃が彼の左肩を深く切り裂いた。
軍服の布地が無残に弾け、鮮血が舞う。
異世界に来て以来、サキモリが許した初めての「明確な被弾」だった。
「サキモリ様が……打たれた……!?」
後方で見守る兵士たちが息を呑む。不沈の防波堤に、決定的な亀裂が入った瞬間だった。
サキモリは返しの石突きで魔族の頭蓋を粉砕したが、肩から滴る血が、彼自身の軍服を重く染めていく。
ポーションはない。自己修復という贅沢な選択肢を捨てた代償が、鈍い痛みとなって脳を焼く。
(……ノイズ、ですね)
サキモリは血の混じった息を吐き、左肩の感覚が消失していくのを冷徹に分析した。
仲間を案じる心。それは人間としては正解かもしれない。だが、十万の軍勢を一人で受け止める「構造体」としては、それは死を招く不純物でしかなかった。
「感情は、管理の邪魔だ……」
自分に言い聞かせるように呟く。だが、一度生じた「不安」という名のノイズは、魔法通信の悲鳴が届くたびに、彼の精密な動きを確実に狂わせていく。
その時だった。
地平線を埋め尽くす黒い波の奥底から、これまでとは異質の、重く、淀んだ圧力が立ち昇った。
魔族軍の最深部。玉座のような巨獣の背に揺られていた「幹部」が、ゆっくりとその巨体を起こしたのだ。
サキモリの肩から流れる血。その「隙」を見た魔族の将は、獲物を追い詰める悦びに口角を歪める。
「……計算が、ズレ続けていますね」
サキモリは、震え始めた左腕を無理やり槍に固定した。
前方からは、一歩、また一歩と、大地を揺らしながら幹部が前線へと移動を開始する。
最強の個体が、最悪のタイミングで動き出した。
防波堤の亀裂は、今、崩壊へのカウントダウンへと変わろうとしていた。
(第七十二話:完)
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