第六十九話:構造の「再定義」
バルバロイ国境線。押し寄せる黒い津波を前に、サキモリは軍服の袖を捲り上げた。
目の前を埋め尽くすのは、十万の軍勢。そしてその中央には、一国を単独で踏み潰す力を持つ魔王軍幹部の禍々しい気配が鎮座している。
サキモリの脳内では、かつてないほど高負荷の演算が実行されていた。
勝利の計算式は成立しない。防衛の完了も見えない。
ただ、彼の魂が導き出した、執念に近い「再定義」だけがそこにあった。
(……一秒でも早く、一匹でも多く、この場で殲滅する。それが、他の三戦場への唯一の援護となる)
サキモリは、震える指先を槍に凍りつかせた。
自分がここで無傷で立ち続け、かつ最短時間でこの軍勢を壊滅させることができれば、まだ息のあるうちにアリサやエレン、ルミナの元へ駆けつけられるかもしれない。
あるいは、自分がここで狂気的な損害を与え続ければ、他国へ向かっている敵の増援を、このバルバロイへと引き付ける「デコイ」になれるかもしれない。
それは、成功率一%にも満たない、管理者の理性を逸脱した「祈り」に似た狂気だった。
「……私の肉体を、戦闘リソースとして完全消費させます」
サキモリは深く、静かに息を吐いた。
ストレージは空だ。一度でも刃が深く身を裂けば、そのまま「防波堤」は崩壊する。
だが、その極限の重圧が、彼の意識をかつてない領域へと押し上げた。
かつて、太平洋の孤島で彼が相手にしたのは、魔族などという生ぬるいものではなかった。
空を覆い尽くす鋼鉄の戦略爆撃機、水平線から一斉に火を吹く巨大戦艦の主砲、島を更地にするほどの高火力銃火器の雨。
それら近代文明の結晶たる「鋼鉄の暴力」を相手に、彼は二十年間、ただ一本の槍と自らの肉体だけで、一歩も引かずに守り抜いてきたのだ。
「死なないこと」。
「致命傷を回避すること」。
「そして、目の前の敵を悉く倒すこと」。
思考をその三点だけに絞り込んだ瞬間、サキモリの瞳から色が消えた。
ドォォォォン……!
先遣隊の巨獣が、咆哮と共にサキモリへと躍りかかる。
だが、その巨躯が地面に触れるより早く、銀色の閃光が空間を切り裂いた。
「――構造上の脆弱性を、確認しました」
無機質な呟きと共に、サキモリの槍が巨獣の眉間を貫き、背後の歩兵ごと粉砕する。
一歩。また一歩。
十万の軍勢に向かって、逆流する小川のように、軍服の男が踏み込んでいく。
それは管理ではなく、蹂躙。
それは防衛ではなく、虐殺。
かつてあらゆる鋼鉄の怪物を屠り、太平洋に沈めた「究極の防人」が、異世界の戦場にその牙を剥いた。
一人の男の周囲に、魔族の返り血でできた赤い円陣が広がり始める。
「……さて、地獄の時間を買い取るとしましょう」
咆哮と地響きが混じり合う混沌の中、サキモリの灰色の槍が、絶望を切り刻む旋律を奏で始めた。
(第六十九話:完)




