第六十八話:独りの「防波堤」、残された一〇万
第六十八話:独りの「防波堤」、残された一〇万
二週間後。
バルバロイ国境、緩やかな丘陵地帯。
そこは、かつて数多の英雄が剣を振るい、あるいは散っていった歴史の交差点。
だが今、その地に立つのは――
華美な意匠も、魔法の加護も持たない、一人の「管理人」に過ぎなかった。
サキモリは、埃を被った軍服の襟を正し、一本の槍を地面に突き立てる。
『灰色の槍』。
日本の孤島で二十年。
折れ、削れ、再び握り直され続けた、ただの鉄。
だがそれは、彼にとって「武器」ではなく、構造そのものだった。
周囲に味方はいない。
盾も、目も、回復も。
完全な単独運用。
(……原点回帰、ですか。想定内です)
サキモリは、脳内の計算機を静かに起動する。
ストレージ:空。
補給:なし。
回復手段:なし。
エラー許容値:ゼロ。
一度の致命傷=即時終了。
それでも、彼の呼吸は乱れない。
だが――
「……っ」
わずかに、思考にノイズが混じる。
北。
アリサの盾が、今も砕け続けている可能性。
東。
エレンの弓が、残弾ゼロに近づいている可能性。
南。
ルミナの小さな体が、絶望の密度に押し潰されている可能性。
確認不能。
だが、確率としては存在する。
(……排除できない情報)
それは戦術的には「不要な負荷」。
だが――消せない。
「……集中してください、私」
自分自身に対する命令。
「今は目の前の十万のみ。……それ以外は、処理対象外」
だが、完全には切れない。
かつては「守る対象=一点」だった。
今は違う。
守るべきものが、三方向に分散している。
それが、彼の思考に初めての遅延を生んでいた。
(……一〇万。幹部一名)
再計算。
(排除後、即座に転進。三戦場へ再接続)
成立条件:極めて困難。
だが――
(それ以外の解は、存在しない)
サキモリは槍を引き抜いた。
姿勢を落とす。
重心固定。
視線収束。
これから必要なのは、
・完全回避
・無駄のない刺突
・連続処理
ただそれだけ。
その瞬間。
ゴォォォォ――
大地が鳴った。
一〇万の軍勢が、同時に動き出す。
音ではない。
圧力。
空気が震え、地面が揺れ、空間そのものが押し寄せてくる。
黒い波。
視界の端から端まで、全てが敵。
先頭の魔族が咆哮する。
それに呼応して、全体が加速する。
個ではない。
これは「質量」。
(……来ますか)
サキモリは、一歩も動かない。
ただ、槍の穂先をわずかに上げる。
狙いは一点。
先頭。
流れの起点。
「……さて」
呼吸を一つ。
「地獄の時間を買い取るとしましょう」
次の瞬間――
黒い波が、彼に衝突した。
一人の人間と、十万の現実。
その接触点で、戦闘ではない「処理」が始まる。
(第六十八話:完)




