第六十七話:ルミナ、最弱国の絶望的な防衛
第六十七話:ルミナ、最弱国の絶望的な防衛
最後に残されたのは、かつて「おじさん」と呼び、サキモリの凍てついた思考に温度を与え続けてきた最年少の魔導士、ルミナだった。
アルタ王国行きの荷馬車の前で、彼女は五〇〇キログラムのポーションの山を見つめ、立ち尽くしている。
「……受領してください、ルミナ先生。アルタは四国の中で最も戦力が低い。幹部が率いる十万の正規軍に対し、この量は文字通り『焼け石に水』です」
乾いた風が、サキモリの軍服の袖を揺らした。
彼はルミナに、一冊の分厚い手帳を差し出す。
そこに記されているのは、救済ではない。
医学の知識を持たぬ者でも実行できる、極限まで薄めたポーションの運用。
誰を優先し、誰を切り捨て、どの瞬間に回復を投下すれば「戦線を数分だけ延命できるか」。
それは――命の価値を秒単位で切り分けるための設計図だった。
「おじさん、これ……」
「……その五〇〇キロを、希望のために使ってはいけません」
サキモリは静かに言い切る。
「それは、絶望を均等に分配し、全滅の瞬間を後退させるための『重し』です。……もしも、その五〇〇キロが尽き、戦線が崩壊したなら」
一拍の間。
「国を捨て、孤児院の子らだけを連れて、逃げなさい。……これは命令です」
「……そんなこと、できるわけないじゃない!」
ルミナの声が、倉庫の壁を叩いた。
その叫びには、幼さではなく、確かな意志が宿っている。
「おじさんはいつもそう! 構造とか効率とか、そんなことばっかり言って……! 自分が一番ボロボロになって、一滴のポーションも残さないで、一人で戦うくせに……!」
彼女の拳が、サキモリの胸を叩く。
「なのに私には、仲間を見捨てて逃げろっていうの!?」
「……それが生存率をわずかでも上げる、唯一の選択だからです」
「そんな数字、大嫌い!」
ルミナは即座に否定した。
「おじさんが教えてくれたのは、計算じゃない……『防波堤』でしょ!」
彼女の瞳は、真っ直ぐだった。
「守るべきものの前で立ち止まらない。最後の一秒まで立ち続ける。それがおじさんのやり方だったじゃない!」
その言葉は、理屈ではなく、記憶だった。
共に過ごした時間の中で、彼女が見てきた「サキモリという構造」。
ルミナは手帳を引き寄せ、強く抱え込む。
「私は逃げない。この五〇〇キロで、アルタの民を一人でも多く生かしてみせる」
一歩、踏み出す。
「おじさんがバルバロイで立つなら、私もアルタで立つ。……それでいいでしょ」
サキモリは、胸に残る微かな痛覚を無視した。
その反論は、論理的には破綻している。
だが――構造としては、正しい。
(……防波堤の定義が、拡張されている)
彼女はもう、守られる側ではない。
「……。そうですか」
サキモリはわずかに目を細めた。
「……ならば、管理を完遂してください」
それ以上は、何も言わない。
説得は不要。
彼女はすでに「決定」を終えている。
「……さようなら、おじさん」
ルミナは、最後に一度だけ、軍服の裾を強く握った。
ほんの一瞬だけ残された温度。
それが、すぐに離れる。
馬車が動き出す。
砂塵が舞い上がり、小さな背中が遠ざかっていく。
振り返らない。
それが、彼女なりの「証明」だった。
やがて、完全に姿が消える。
北にアリサ。
東にエレン。
南にルミナ。
サキモリの周囲から、
盾が消え、
目が消え、
そして最後に――温度が消えた。
(……これで、全て切り離しましたね)
王都の門に、ただ一人。
ストレージは空。
補給は存在しない。
支援もない。
残っているのは、
一本の槍と、
一つの意思だけ。
だが、かつての孤島と違う点がある。
あの時は「失うものがなかった」。
今は違う。
(……三地点。各五〇〇キロ)
頭の中で、砂時計が同時に落ちている。
それぞれの戦場で、同時に。
それぞれの命を削りながら。
地平線の彼方から、震動が届く。
十万。
その質量が、世界を押し潰そうとしている。
サキモリは、ゆっくりと歩き出した。
逃げ場のない計算式へ向かって。
孤独という環境下で、なお続行される「管理」のために。
(第六十七話:完)




