第六十六話:エレン、狙撃手の孤独な帰還
第六十六話:エレン、狙撃手の孤独な帰還
アリサが去った北門から、今度は東へと向かう街道に馬車の轍が刻まれようとしていた。
クレイオス公国。一度は滅び、サキモリの手によって再興の産声を上げたばかりのその国へ、王女エレンが帰還する。
「……これを持って行ってください」
サキモリが差し出したのは、五〇〇キログラムのポーションの目録と、一束の古びた羊皮紙だった。
そこには、彼がかつて二十年間の孤島生活で編み出した「折れた武器の再利用術」――穂先の欠けた槍を投擲具に変え、砕けた剣を罠の部品として再構成する、泥臭い生存の智慧が記されていた。
「これ、は……?」
「……クレイオスには、ガーランドのような精鋭騎士団はありません。あるのは、志だけで立ち上がった民兵たちだ。彼らが持つ粗末な武器は、魔族の正規軍を前にすれば数分でへし折れるでしょう」
サキモリは、感情の起伏を押し殺した声で続けた。
「武器が折れたら、それを捨てずに『次の殺し方』に変換してください。このメモにある構造を頭に叩き込めば、農具ですら数秒は時間を稼ぐ道具になります」
それは、勝利のための戦術書ではない。
武器が壊れ、絶望に呑まれようとするその瞬間に、なおも足掻き続けるための「地獄の処方箋」だった。
エレンは、その重い羊皮紙を胸に抱きしめた。
彼女の瞳からは、堪えきれない涙が溢れ出し、サキモリの無機質な軍服の裾を濡らした。
「サキモリ様……本当は、嫌です。帰りたくなんて、ありません……!」
エレンが縋り付くように叫ぶ。
「私は、貴方の隣で戦いたかった。貴方の視界の端で、貴方の背中を狙う敵を撃ち抜いて……たとえ勝てなくても、貴方の隣で、貴方と同じ瞬間に死にたかった……!」
それは、王女としての立場を捨てた、一人の少女の剥き出しの本音だった。
だが――
サキモリは、その細い肩に触れることすらしなかった。
伸ばしかけた手を止め、そのまま下ろす。
彼はただ、冷徹な「管理者」として、彼女の熱を切り離す。
「……エレン殿。貴女の生存時間は、手渡した五〇〇キロのポーションを使い切るまでです」
その瞳に、揺らぎはない。
「一秒も無駄にしないでください。貴女が涙を流している今の数秒も、クレイオスの民が生き延びるためのリソースを浪費しているに等しい」
「サキモリ、様……」
「……行きなさい。貴女は私の『目』でしたが、今日からはクレイオスの『心臓』です。私が教えた構造を信じるなら、最後まで管理を放棄してはならない」
エレンは唇を白くなるほど噛み締め、涙を拭った。
サキモリがここまで冷たく振る舞う理由。
それが「切り離すための強制処理」であることを、彼女は理解していた。
優しさを残せば、離れられなくなる。
だから彼は、あえて非情であり続けている。
「……分かりました。私は、貴方の最高傑作であるこの国を、一秒でも長く守り抜きます。……ですから、貴方も」
言葉は途中で途切れた。
エレンは振り返らない。
振り返れば、戻れなくなるからだ。
「クレイオスへ! 止まるな、全速力で駆け抜けろ!」
馬車が走り出す。
砂塵が舞い上がり、その背中を覆い隠していく。
サキモリは、ただ立ち尽くし、その消えていく軌跡を見ていた。
やがて完全に視界から消えた瞬間――
何かが、途切れた。
(……視界、喪失)
これまで共有されていた数キロ先の索敵情報。
エレンという「外部センサー」が消えたことで、世界の解像度が急激に落ちる。
見えていたものが、見えなくなる。
(……暗い、ですね)
太陽は高い。
だが彼の中では、確かに光が減っていた。
盾は失われた。
目も失われた。
残ったのは、ただ一人の管理者。
「……次は、ルミナ先生の番です」
サキモリは、影の伸びる石畳の上を歩き出す。
四角形は崩れた。
構造は分解された。
そして今、残されたのは――
完全な単独運用。
「不沈」の名を持つシステムは、ついに「孤独」という未知のフェーズへ移行した。
(第六十六話:完)




