第六十五話:アリサの出立、不変の背中
第六十五話:アリサの出立、不変の背中
バルバロイの王都。その北門に、重々しい蹄の音が響いていた。
荷馬車に積まれた五〇〇キログラムのポーション。それは帝国ガーランドの命を繋ぐための「砂時計」であり、サキモリが自らの生存を捨ててまで削り出した、血の結晶だった。
「……準備は整いました。各員、速やかに出発を。ここから帝国までは馬を飛ばして二週間。一秒の遅滞も許されません」
サキモリの声は、朝の冷気に溶けるように淡々としていた。
彼の前には、帝国の聖騎士装束に身を包んだアリサが、愛馬の手綱を握って立っている。
二人の旅は、いつもサキモリが先頭を歩き、アリサがその「盾」として隣に立つのが当たり前だった。
サキモリが構造を分析し、アリサがその合理性を守る。
その補完関係こそが、どんな強敵をも退けてきた「不沈の四角形」の核だったのだ。
だが、今――その構造が物理的に引き裂かれようとしている。
「サキモリ殿。……一つ、確認させてくれ」
アリサが、低く、力強い声で切り出した。
彼女の視線は、サキモリの腰にある空っぽのストレージベルトを射抜いていた。
「貴殿のストレージには、もう一滴のポーションも残っていない。……そうだな?」
「……ええ。私の肉体は、既存の戦闘技術のみで維持するよう、再定義しました。自己修復機能への依存は、現時点をもって完全に切り離しています」
「……馬鹿者が」
アリサは吐き捨てるように言った。
彼女は知っている。
サキモリがどれほど無茶な戦い方をする男かを。
敵の攻撃を最小限の動きで受け流し、あるいは肉を切らせて骨を断つ。
その「肉を切らせる」部分を可能にしていたのは、彼自身の超常的な回復手段があったからこそだ。
それを自ら捨てたということは――
これから彼が十万の軍勢と戦う際、かすり傷一つが致命傷になり得るという、極限の綱渡りを意味する。
「貴殿を失えば、この世界の兵站は終わる。……生きて、また私に薬を飲ませろ。不味いと文句を言いながら、私がそれを飲み干すまで、貴殿に倒れる権利はない」
アリサの言葉は、騎士の誓いよりも重く、切実だった。
それに対し、サキモリは視線を地図の向こう、地平線へと投げたまま、一度だけ頷いた。
「……善処します。アリサ殿も、預けた五〇〇キロを効率的に運用してください。……感情で無駄打ちをすれば、その瞬間にガーランドは落ちます」
「分かっている。……貴殿の合理性、私が帝国まで運んでみせよう」
アリサは力強く頷くと、愛馬の腹を蹴った。
「出発だ! 帝国ガーランドへ!」
彼女の号令と共に、荷馬車と護衛兵たちが動き出す。
サキモリはその場に立ち尽くし、遠ざかっていくアリサの背中を見つめていた。
金髪のポニーテールが朝陽に揺れ、彼女が掲げる盾が鋭い光を反射する。
これまで何度も、自分の横を守り続けてくれたその「盾」が、今は遠く、別の戦場へと離れていく。
アリサが去った後の空気は、驚くほど静かで、そして頼りない。
サキモリの周囲から、鉄壁の防衛を誇った「盾」の気配が消失したのだ。
(……一角、欠落しましたか)
サキモリは、自身の心拍数がわずかに上昇しているのを自覚した。
二十年前の孤島と同じ、独りの戦場。
だが、あの頃と違うのは、自分の「欠片」を託した仲間が、別の場所で戦っているという確信だった。
補給路の要であった「不沈の四角形」。
その一角が、今、静かに、そして決定的に欠け落ちた。
後に残されたのは、丸腰の管理者と、一〇万の軍勢という、あまりにアンバランスな数式だけだった。
「……さて。次のリソース、エレン殿の切り離しに移行します」
サキモリは一度も振り返ることなく、再び王都の闇へと歩き出した。
振り返れば足が止まる。
地平線の彼方では、すでに出立したアリサの砂塵が、ゆっくりと空に溶け始めていた。
(第六十五話:完)




