第六十四話:一.五トンの「分配(パージ)」
第六十四話:一.五トンの「分配」
バルバロイの地下倉庫。
そこは、サキモリが積み上げてきた「不沈の神術」が、冷徹な兵站へと解体される場所となった。
「……仕分けを終了します。各国の代表、および護衛兵の方々。これを受領してください」
サキモリの声は、感情を排した機械のように響く。
彼は熟練度レベル五へと進化したばかりの【ストレージ】を展開した。
一.五トン。
個人としては規格外の積載量を誇るその虚空には、彼が「万が一」のために一滴ずつ精製し、積み上げてきた最高純度のポーションが詰まっている。
サキモリはそれを、迷いなく三つの塊へと分割し、石畳の上に叩きつけた。
「サキモリ様、それは貴方の……貴方が生き残るための予備でしょう!? 一滴も残さないなんて、そんなの自殺と同じです!」
エレンが叫び、その腕に縋り付こうとする。
だが、サキモリはその手を静かに、しかし拒絶の色を込めて振り払った。
「……私の生存優先順位は、とうの昔に最下位まで落ちています。今の私は、ただの供給機に過ぎない」
五〇〇キログラムずつに正確にパッキングされた三つのパッケージ。
サキモリは自分自身の分を、一グラムたりとも残さなかった。
アリサが、空っぽになっていく虚空を見つめ、苦しげに問う。
「……貴殿は、丸腰で戦うつもりか。十万の正規軍と、その幹部を相手に。自己修復なしでは、一度の失策が即、死に直結するのだぞ」
「丸腰……。ええ、二十年前と同じです」
サキモリは自嘲気味に口角を上げた。
かつての孤島。補給など最初からなかった。折れた槍を投げ、砕けた刀で戦車を殴り倒した地獄。彼にとって「物資の欠乏」は日常だ。
そんなものは恐怖の対象にすらならない。
だが――
今、サキモリの指先は、かつての孤島でも見せなかった微かな震えを刻んでいた。
(……たった、五〇〇キロか)
十万の軍勢。魔王軍の幹部。圧倒的な暴力。
それに対し、自分が用意できたのは、一国あたり「たった五〇〇キロ」の液体だけだ。
これから彼女たちは荷馬車と騎馬を飛ばし、二週間かけてそれぞれの母国へ帰還する。
その時点では、まだ敵は現れていないだろう。
だが、その数日後には、確実に「十万」が空を覆い尽くす。
その時、この五〇〇キロは――
一〇万の喉を潤すことすらできない、あまりに短すぎる「砂時計の砂」でしかない。
「……これより、兵站を完全に切り離します」
サキモリは、各国の護衛兵たちにパッケージを託した。
最後に残ったアルタ用のパッケージを前に、ルミナが立ち尽くしていた。
「おじさん……これ、受け取れないよ」
ルミナの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
彼女はサキモリの胸元を掴み、縋るように訴えた。
「これを持って行ったら、本当におじさんの分がなくなっちゃう。いつもあなたの後ろで、無茶ばかりするおじさんに付き合ってた私を助けてくれたのに……今度は、おじさんの後ろに誰もいなくなっちゃうんだよ……?」
一番長く旅を共にし、サキモリがどれほど無理を重ねて「管理」を維持してきたかを知っているのは、ルミナだ。
彼の体が鋼ではなく、ただの不器用な人間の肉体であることを、彼女は誰よりも理解していた。
「……受領してください、ルミナ先生。それが今の、アルタ王国における最善の構造です」
サキモリは努めて淡々と、だが真摯に彼女の目を見つめ返した。
ルミナは唇を噛み締め、震える手でその重みを受け取った。
サキモリの思いを無下にすることこそが、今の彼にとって最大の「エラー」になることを理解したからだ。
「……わかった。おじさんの思い、ちゃんと持って行く。……でも、絶対だよ。絶対、死なないでよ」
「ええ、必ず――」
言葉を詰まらせたサキモリは、その先を言えなかった。
空になったストレージの闇。
そこに残っているのは、もはや「余剰」ではなく、完全なゼロ。
彼は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「……これだけですか。私は、最強に近づいたつもりでいた。それなのに……たったこれだけの時間しか、彼女たちに買ってやれないのか」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
だがそこには、どんな怒りよりも深い、静かな敗北があった。
倉庫の出口から差し込む朝日が、無情にもタイムリミットの開始を告げる。
一.五トンの物資を捨て、サキモリはたった一本の『灰色の槍』を握り直す。
それは、希望なき延命。
そして――
世界で最も無謀な「一人の戦争」への回帰だった。
(第六十四話:完)




