第六十三話:騎士の涙、姫の覚悟、魔導士の沈黙
第六十三話:騎士の涙、姫の覚悟、魔導士の沈黙
バルバロイ王都の会議場を支配する、重く、粘りつくような沈黙。
大陸地図に記された「四十万」という数字の暴力。
それは、サキモリという「最強の個」をもってしても、四分割して対応することは物理的に不可能だという宣告だった。
誰もが言葉を失い、死を待つ者特有の無気力に沈もうとしていたその時。
静かに、だが凛とした声が石造りの床を叩いた。
「……サキモリ殿。私は、ガーランドへ戻ります」
最初に声を上げたのは、アリサだった。
彼女は黄金の髪を揺らし、まっすぐにサキモリを見つめた。
その瞳には、一国の騎士団長としての、そして一人の戦友としての、あまりに悲しい「決意」が宿っていた。
「私の部下たちが、帝国で待っている。私が戻らなければ、彼らは戦い方も分からず蹂躙されるだろう。……だから、貴殿の加勢は必要ない。私は私自身の足で、故郷を守りに行く」
「アリサ……何を言って……」
ルミナが息を呑む。
だが、次に口を開いたのはエレンだった。
彼女もまた、縋るような笑みを浮かべてサキモリに告げる。
「私も、クレイオスへ行きます。……ようやく取り戻した私の国です。サキモリ様に救っていただいた命を、今度は私が民のために使う番ですから。……サキモリ様。貴方は、ここにいてください」
「おじさん、私も……アルタに行くよ」
最後にルミナが、消え入りそうな声で続けた。
「孤児院の子たちを置いてはいけないもの。……だから、いいの。おじさんは、一番安全なこのバルバロイで、みんなが戻るのを待っていて」
三人の言葉は、サキモリへの「愛」に満ちていた。
彼女たちは理解していたのだ。
サキモリに「どこかの国を救ってほしい」と頼むことは、残りの二人の故郷と命を捨てるよう命じることと同義だと。
サキモリという優しく、不器用で、誰よりも責任感の強い管理者を、そんな残酷な選択で壊したくない。
だから、彼女たちは選んだ。
サキモリという「リソース」を誰にも独占させず、自分たちが盾となって四散し、サキモリだけは安全な場所で生き延びてほしいという、究極の自己犠牲を。
「……合理的ではありません」
サキモリが、掠れた声で応じる。
「貴女たちが単独で十万の正規軍、そして魔王軍の幹部と戦えば、生存率は〇%です。私が同行しなければ、それは戦略的な『投機』ですらなく、ただの無意味な自殺だ」
「いいえ、意味はあるわ」
ルミナが、涙を堪えながら微笑む。
「おじさんの教えを守って、私たちが一秒でも長く時間を稼げば……もしかしたら、奇跡が起きるかもしれない。……おじさんは、私たちに『生きるための技術』を教えてくれた。だから、大丈夫だよ」
アリサは盾を強く握り、エレンは愛用の弓を抱きしめる。
サキモリから学んだ、効率的な戦い方。ポーションの運用。敵の構造の分析。
それら全てを、彼女たちは「サキモリなしで死ぬための覚悟」へと変換していた。
サキモリの脳内で、熟練度五の演算機能が激しく火花を散らす。
彼の心は、精密な計算機だ。
だが、そのシステムが今、かつてないエラーを吐き出し、回路を焼き切ろうとしていた。
二十年間。
日本の近海にある孤島で、彼は一人で戦い続けた。
その目的は、ただ一つ。
「背後の民から、一滴の血も流させないこと」。
彼にとって、防衛対象の損害は、自らの死よりも許しがたい「構造上の欠陥」であり、絶対的な敗北だった。
それなのに。
今、目の前で、最も身近にいた三人の同行者が、自分を守るために「死」を受け入れようとしている。
「……ふざけるな」
サキモリの口から、無機質な管理者とは思えない、生々しい「怒り」が漏れ出した。
「私に見捨てろと……? 防波堤である私に、仲間たちの故郷の民を捨て、仲間を死なせ、自分だけが安全な場所で呼吸を続けろと言うのですか……!」
サキモリは、拳を血が滲むほどに握りしめ、円卓の地図を睨みつけた。
彼の網膜で点滅する『生存率〇%』。
その冷徹な数字を、彼は自らの「誇り」をもって全否定した。
「貴女たちの自己犠牲など、私は一ミリも承認しません。一滴の血も、一人の命も、一秒の生存時間も……全て私が管理してみせる。……貴女たちが死ぬことを前提とした計画など、この私が、構造から破壊してやる」
サキモリの瞳に、絶望を超えた先にある、狂気的なまでの「執念」が宿る。
「……物流を、再編します。一.五トンの資源、その全てを『死を遅らせるための歯車』に変える。……開戦まで残り十三日。一秒も無駄にはさせない」
管理者の絶叫に近い呟きが、静まり返った会議場に突き刺さる。
それは、希望なき世界への、孤独な反逆の始まりだった。
(第六十三話:完)




