第六十二話:沈黙の「譲り合い」
第六十二話:沈黙の「譲り合い」
バルバロイの円卓会議場を支配していたのは、物理的な重みすら感じさせる「沈黙」だった。
中央の大陸地図に刻まれた四十万の軍勢。
その巨大な「赤」を塗り潰せる「白」は、この部屋にはたった一点しか存在しない。
サキモリは、血の気の失せた唇を震わせ、喉の奥から絞り出すように言葉を零した。
「……一つなら。どこか一カ所だけなら……私が立ち続ければ、守れます」
その言葉は、救いであると同時に、あまりに無慈避な「切り捨ての宣告」だった。
どこか一国を救うということは、残りの三カ国、そこに住む数十万の民、そして何よりここにいる仲間の「大切な場所」を見捨てるということに他ならないからだ。
本来なら、ここで激しい「奪い合い」が起きるはずだった。
自分の国が一番危ない、自分の国こそが最優先だと。
だが、円卓を囲む四国の代表たちは、誰一人として口を開かなかった。
「……」
アルタ王国の使者は、拳を握りしめ、うつむいた。
かつて魔族の襲撃で完全に敗北し、滅びを待つだけだった自国を救い、見送ってくれたサキモリへの恩義。
それを思えば、再び「我が国へ」と縋ることは、人の道に外れると心が叫んでいる。
クレイオスの代表もまた、唇を噛み締めていた。
一度は滅びた国。
だが、姫であるエレンを救い出し、レジスタンスと共に国を奪還し、復興の土台を作ってくれたのはサキモリだ。
これ以上の我が儘が、神の慈悲を汚す行為に思えてならない。
ガーランド帝国のアリサの元部下たちも、バルバロイの軍幹部たちも、同様だった。
ある者は最強の指導を受け、ある者は腐りきった国の在り方を正してもらった。
彼らにとって、サキモリは単なる戦力ではなく、国家の魂を救い上げた恩人なのだ。
「……誰も、言わないのね」
ルミナが、掠れた声で呟いた。
その隣には、アリサとエレンが並んでいる。
三人は、この数ヶ月の旅で、死線を何度も共に越えてきた。
お互いの癖を知り、お互いの弱さを支え、本心から「家族」以上に信頼し合える仲間になっていた。
(アリサの国には、彼女を慕う多くの騎士たちがいる……)
(エレンの国は、ようやく復興の火が灯ったばかりなのに……)
(ルミナの孤児院の子たちは、あのおじさんに懐いていたのに……)
言葉にすれば、それが「呪い」になることを彼女たちは知っていた。
「私の国に来て」とサキモリに告げることは、隣にいる親友の故郷を焼き払う「死の署名」をすることと同義だ。
エレンがサキモリの横顔を見つめる。
アリサが彼の震える手を見つめる。
誰もが、サキモリというリソースが「一つ」しかないという、物理法則の残酷さに打ちのめされていた。
サキモリの脳内では、熟練度五の演算が火花を散らしている。
誰かを選べば、誰かが死ぬ。
全員を等しく配置すれば、全員が死ぬ。
感情を捨てた「最適解」を導き出そうとするが、計算機はエラーを吐き出し続ける。
「……答えが。最適解が、見当たりません」
サキモリの視界。
赤く点滅する『生存率〇%』の文字。
その下に表示されるはずの『推奨ルート』の欄は、真っ白な空白のままだ。
二十年間、孤島で「守るべきもの」を一点に定め、一切の迷いなく戦い抜いてきた彼にとって、これは未知の地獄だった。
守るべき民の顔が、四つの場所から同時に浮かび上がってくる。
自分の隣で戦ってきた三人の、祈るような、それでいて絶望を押し殺した瞳が、彼の思考を鈍らせる。
誰を救い、誰を殺すか。
その残酷な天秤の針は、沈黙という重しを乗せたまま、一ミリも動こうとはしなかった。
ただ一刻一刻と、四十万の軍勢が、愛する者たちの首筋へと近づいてくる足音だけが、会議場に不気味に響いていた。
開戦まで残り十三日。
(第六十二話:完)




