第五十二話:追撃者の誤算、三倍速の行軍
第五十二話:追撃者の誤算、三倍速の行軍
かつてバルバロイ帝国を蹂躙し、今やその版図を侵食しつつある魔族の斥候部隊――「影の追跡者」たちは、困惑の極みにあった。
彼らの任務は、国境付近で不審な動きを見せる四人組の「不沈の四角形」を捕捉し、抹殺することだ。
「……計算が合わん。人間の脚力で、これほどの距離を一日で稼げるはずがない」
黒い毛皮を纏った魔族の隊長は、荒野に残された「足跡」を睨みつけた。
時刻は深夜。本来なら、人間が焚き火を囲み、もっとも警戒を緩める「休息の時間」である。
「報告! 三キロ先で野営の跡を発見。焚き火の灰はまだ温かいです。奴ら、ようやく足を止めたようですな」
部下からの報告に、隊長は冷酷な笑みを浮かべた。
「愚かな。我ら魔族の夜目が、その安らぎを絶望に変えてやる。全速で包囲せよ」
魔族の部隊は、音もなく暗闇を駆け、報告のあった地点へ突入した。
だが、そこに広がっていたのは、彼らが期待した「眠れる獲物」の姿ではなかった。
「……なんだ、これは」
そこには、わずか三十分ほど使用された形跡のある、奇妙なほど整然とした小休止の跡があるだけだった。
ゴミ一つ落ちておらず、あるのは数本の透明なガラス瓶の破片のみ。
「隊長! 灰は温かいですが、周囲に寝た形跡がありません! 奴ら、三十分だけ立ち止まり、再び走り去っています!」
「馬鹿な……。夜を徹して走り続けるというのか? 強化魔法を常用しているにしても、肉体の限界があるはずだ!」
その頃、彼らが追う「獲物」たちは、魔族の予測を遥か彼方に置き去りにしていた。
「……定時です。エレン殿、起床してください。交代の時間です」
サキモリの声は、深夜の冷気の中でも一切の揺らぎがない。
彼は走りながら背負い椅子の固定を解き、眠っていたエレンを下ろすと、入れ替わりに精製作業を終えたルミナを椅子へと誘導した。
「……ん、サキモリ様……。もう、朝ですか?」
「いいえ、まだ深夜二時です。ですが、計画通りの巡航速度を維持しています。エレン殿、次は貴女が索敵を。……これを飲んでください」
サキモリは、走りながらエレンの口元に『中級回復薬』の瓶を差し出した。
エレンはそれを一気に飲み干す。
薬理作用が瞬時に脳内の疲労物質を中和し、強制的に意識を「覚醒」の状態へと引き戻す。
「……はい、視界は極めて良好です。……背後、五キロ地点に微かな殺気。魔族の斥候と思われます」
「……想定内です。彼らの追撃速度は、我々の巡航速度の六割に過ぎません。このまま夜を抜ければ、夜明けまでに国境の関門を通過可能です」
サキモリ自身もまた、定期的にポーションを自らに投与していた。
彼の脚は、機械のピストンのように一定のリズムを刻み続ける。
筋肉が悲鳴を上げれば薬で黙らせ、肺が焼けるような熱を持てば循環魔法で冷やす。
彼にとっての進軍とは、精神力で耐える「苦行」ではなく、燃料を投下し続ける「継続的な燃焼」であった。
一方、後方を追う魔族の斥候部隊は、凄惨な状況に陥っていた。
「た、隊長……もう……限界です……」
「馬鹿者が、気合を入れろ! 相手は足の遅い人間なのだぞ!」
だが、隊長自身も膝の震えを隠せなかった。
魔族の強靭な肉体をもってしても、飲まず食わずで、かつ一度も足を止めずに走り続けるサキモリたちの「異常な定速」にはついていけない。
夜襲をかけるはずだった彼らは、いつの間にか「追いつくことすらできない絶望」に直面していた。
彼らの常識では、夜は「暗殺の好機」だが、サキモリの兵站管理下では、夜は単なる「視界の悪い日勤時間」に過ぎない。
「……見えました。国境ゲートです。バルバロイとの条約に基づき、あそこを通過すれば我々の安全は国際法によって守られます」
サキモリは、朝日が地平線から顔を覗かせた瞬間、国境の石柱を軽やかに踏み越えた。
一度も止まらず。一度も速度を落とさず。
彼らが踏破した距離は、通常の軍隊が十日を要する道のりであった。
「……ふぅ。……おじさん、本当にやっちゃったわね。魔族の連中、今頃泡を吹いて倒れてるんじゃない?」
椅子から下りたルミナが、朝日を浴びながら伸びをする。
その表情に、疲弊の色はない。
サキモリの徹底した「交代制睡眠」と「薬理管理」が、彼女たちの体力を新品同様に保っていた。
「……当然の帰結です。追撃者の最大の誤算は、我々を『生物』として計算に入れたこと。……今の我々は、物流という名の『現象』ですから」
サキモリは空になったポーションの瓶を一つ、無機質な音を立ててインベントリに片付けると、次なる目標地へと視線を向けた。
不沈の進軍は、まだ始まったばかりであった。
第五十二話:完




