第百九十話:【静寂の洗礼:構造を支える芯】
第百九十話:【静寂の洗礼:構造を支える芯】
夕食を終えた野営地には、穏やかな夜の空気が流れていた。
サキモリはいつものように、この世界に来てから欠かさず続けている精神修養の準備を始める。
それを見ていたミャオは、猫耳をぴこぴこと動かしながら隣に座った。
「サキモリ、それは修行かニャ? あたしもやるニャ!」
「ええ、心技体を整える基礎訓練です。では、私と同じ姿勢をとってください」
サキモリが示したのは、何の変哲もない「腕立て伏せ」の姿勢だった。
ミャオは「なんだ、楽勝だニャ」と鼻を鳴らし、同じように両手をついて身体を浮かせる。
しかし、サキモリはそこから一向に動こうとしない。
一時間が経過した。
微動だにしないサキモリに対し、ミャオの細い腕はすでにぷるぷると震え始めていた。
「……サキモリ、これ、いつまでやるんだニャ? なんで動かないんだニャ?」
「力はいりません。これは筋肉を膨らませる運動ではなく、心と体の一致を図る構造の鍛錬ですから」
サキモリは呼吸一つ乱さず、静かに言葉を返す。
「ルミナ先生、そろそろ始めてもらっていいですか?」
「はいはい、お待たせぇ」
傍らで果実を齧っていたルミナが、のんびりと立ち上がる。
そして、あろうことかサキモリの背中の上に、重しとしてちょこんと座り込んだ。
「ミャオ、あんたは重りなしなんだから、もっとシャキッとしなさいよ」
ルミナは聖母のような微笑みを浮かべているが、その重みを受けたサキモリの姿勢は寸分の乱れも生じない。
ミャオは、すでに限界に近い自分の腕と、ルミナを平然と背負うサキモリの差に衝撃を受け、顔を歪ませた。
三時間が経過した。
夜風は冷たくなり、ミャオの意識は朦朧としていた。
「う、腕がもげるニャ……痛いし、眠いし、もう限界だニャ……」
ミャオの目から涙が零れそうになったその時、サキモリの背の上で毛布にくるまっていたルミナが、優しく手をかざした。
「はいはい、可愛そうだねぇ。回復してあげるから、しっかり頑張りなさいな」
高レベルの回復魔法がミャオを包み込む。
瞬時に筋肉の激痛が消え、疲労が和らぐ感覚に、ミャオは「助かったニャ……」と安堵の息を漏らした。
だが、その直後、彼女の背筋に氷のような寒気が走る。
(……待つニャ。これ、いつ終わるんだニャ?)
ルミナは慈愛に満ちた顔で「回復」はしてくれる。
しかし、彼女の口から「もう止めていいよ」という言葉が出る気配は微塵もなかった。
ルミナの寝息が聞こえ始め、彼女はサキモリの背を「ベッド」代わりにして完全に眠りについた。
回復魔法によって肉体の限界はリセットされ続けるが、精神的な苦痛と「姿勢を維持しなければならない」という拘束からは逃げられない。
ルミナの底知れない無慈悲なまでの慈愛。
そして、その重みを背負い、回復魔法を受けることもなく、起きているのか寝ているのかすら判別できない不動の姿勢を貫くサキモリ。
「……この人たち、やっぱり化け物だニャ……」
絶望的な夜の闇の中、ミャオは震える腕を突き立てながら、サキモリという男が持つ「構造の強固さ」を、身を以て思い知らされることとなった。
(第百九十一話へ続く)




