第十六話:聖騎士のアリサと、消えた十万
第十六話:聖騎士のアリサと、消えた十万
1.絶望の召集令
大国ガーランドの軍事境界線。そこには、かつてない濃密な死の気配が漂っていた。
魔王軍幹部、獅子王が率いる十万の獣人軍。それは一国を滅ぼすに十分な「暴力の濁流」である。ガーランド王家は近隣諸国へ即時の援軍要請を出したが、返ってきたのは絶望的な回答ばかりだった。
「聖勇者は『修行中』、他の勇者共は『領地の守り』を理由に逃げ出したか。……笑えぬ冗談だ」
軍事大国ガーランドの誇る聖騎士団長、アリサは金髪を乱暴に掻き上げ、前線基地の天幕で吐き捨てた。集まったのは、勇者不在の状況に震える一般兵と、彼女が率いる聖騎士隊のみ。数にすれば、敵の十分の一にも満たない。
「団長、各国の連合兵も到着しましたが、士気は最低です。……正直、混戦になれば数時間と持ちますまい」
「わかっている。だが、我らが退けばこの背後にある数百万の民が蹂躙に晒される。……全軍、死力を尽くせ。甚大な被害は避けられぬが、一歩も引くことは許さん」
アリサは「不沈の盾」の異名に相応しく、自ら最前線で肉壁となる覚悟を決め、戦場となる平原を見据えた。
2.蒸発した十万
しかし、戦闘開始予定時刻を半日過ぎても、平原には静寂だけが支配していた。
放った斥候は次々と帰還するが、その報告はどれもが困惑に満ちている。
「報告します! 西方五キロ、敵影なし!」
「北方より帰還! 獅子王の軍勢、依然として発見できません!」
アリサは戦慄した。十万の軍勢が、まるで煙のように消えてしまったのだ。
「馬鹿な……十万だぞ? 隠れられる数ではない。獅子王はどこへ行った? 別ルートからの奇襲か? あるいは、我々を嘲笑っているのか……!?」
アリサが焦燥に駆られていたその時、一人の連合兵が震える手で通達を持ってきた。
「あ、あの……バルバロイ公国からの同行者が、置手紙を……」
3.「不沈の防波堤」の独断
アリサが奪い取った手紙には、ひどく簡素な、報告書のような文面が並んでいた。
『敵軍の進軍ルートを検分。主街道を避け、山間の旧砦跡を通過する確率九十二%。
現状の戦力で貴殿らを護衛しながらの戦闘は、私のリソースを過剰に消費し、生存率を低下させる。
よって、単身で敵軍の喉元を封鎖し、遅滞戦闘を行う。
――ルミナ先生、エレン殿。無事に帰るとお約束します。どうか、他の方々をお守りしてください。』
「……単身で、封鎖?」
アリサは絶句した。
彼女が想定していた戦場から数時間離れた、見捨てられた出城の砦。地図上で確認すれば、そこは確かに十万の軍勢が通過せざるを得ない「隘路」であった。
だが、そこを「一人」で止めると言うのか。
「……正気か? 相手は十万だぞ。いくら何でも、自殺志願者でもやらん!」
4.砦に立つ「影」
その頃、切り立った崖の間に位置する、風化した出城の砦。
そこには、サキモリの命によって砦内に押し込められ、震えながら扉を閉ざした数名の残存兵がいた。
「……本当に出てこなくていいんですか……?」
「扉を閉めておけ。それがあなたたちの、唯一の防衛工程だ」
サキモリはそう言い残すと、たった一人で砦の外、唯一の道の中央に立った。
彼の手には、くすんだ灰色の再生槍。
視界の先、地平線を埋め尽くすほどの砂塵が舞い、獅子王率いる十万の咆哮が大地を揺らして迫りくる。
サキモリは表情一つ変えず、槍の石突きを地面にトントンと打ち付け、呼吸を整えた。
「――境界線の策定、完了。ここより先への侵入を、物理的に不許可とします」
十万の刃、十万の矢、十万の魔法。
そのすべてを受け止める、世界で最も孤独で、最も強固な「防波堤」が、今その幕を上げる。




