第百四十九話:【竜の逆鱗】
第百四十九話:【竜の逆鱗】
白銀の雪原に落ちた、たった一滴の紺碧。
それが、数万年揺らぐことのなかった古龍の誇りを踏みにじる「傷」であると、聖域そのものが理解した。
ニドヘグの瞳から静寂が消え、底知れぬ怒りの奔流が溢れ出す。
周囲の温度は瞬時に絶対零度へと急落し、大気は凍結して砕け、空間そのものが軋みを上げた。
ニドヘグは巨大な喉を震わせ、内側から青白い光を漏らす。
それは先ほどの「溜息」ではない。
世界を無に還す真の「ブレス」の胎動だった。
「――っ、来る! 全員、アリサの後ろへ!」
サキモリの叫びが響く。
だが、逃げ場など存在しない。
竜のブレスの有効射程は、この山頂すべてを飲み込んで余りある。
「やらせません……! この盾は、誰にも抜かせないッ!」
アリサが前へ踏み出す。
彼女は自身の全存在、全魔力、そして騎士としての魂のすべてを概念盾『アイギス』へと流し込んだ。
展開された盾は、もはや光の壁ではない。
実在する「理」を遮断する巨大な門扉――世界の終焉を食い止めるための最終防壁へと変貌を遂げていた。
「おおおぉぉぉッ!」
ニドヘグが口を開く。
放たれたのは、熱量と冷気が矛盾したまま衝突し、物質を原子レベルで消滅させる「無の極光」だった。
ガギィィィイイインッ!!
ブレスがアイギスに直撃し、世界が白濁した光に飲み込まれる。
アリサの絶叫が轟く。
腕の骨が軋み、肉が裂けるような衝撃。
だが、彼女は一人ではなかった。
「支えます、アリサ……倒れることは許さない!」
サキモリが背後からアリサの背中に両手を当て、自身の重心と「気」をすべて盾の強度へと転換する。
「私の魔力、全部持っていきなさいッ!」
エレンがアリサの肩に手を置き、無限に近い魔力の奔流をアイギスへと流し込む。
『盾の構造、秒間三万回の超高速修復開始! 粒子レベルで繋ぎ止めて、絶対に壊させない!』
ルミナの意識が、ブレスによって削り取られる盾の表面を、瞬きするよりも早く再構築し続ける。
文字通りの総力防衛戦。
アリサという「門」を、サキモリが支え、エレンが燃やし、ルミナが繋ぐ。
四人の魂がアイギスの一点において、一つの強固な意思へと溶け合っていた。
極光の奔流が荒れ狂い、周囲の岩石が瞬時に蒸発していく。
激しい光の渦中で、盾が砕ける鈍い音が、心臓の鼓動のように重く響いた。
「……ッ、まだだ! まだ、消えさせないッ!」
視界が白く染まり、感覚が消失していく。
四人の意識が境界を失い、一つに重なり合う極限状態の中、アイギスの輝きだけが、神の怒りに抗う唯一の灯火として燃え続けていた。
(第百五十話へ続く)




