第百四十七話:【物理法則の消失】
第百四十七話:【物理法則の消失】
古龍ニドヘグが、その巨大な翼をゆっくりと広げた。
ただ一度の羽ばたき。
それだけで、聖域の澄み渡った静寂は、地形すら変容させる局地的嵐へと一変した。
数トンもの雪と岩が舞い上がり、重力そのものが消失したかのような猛烈な圧力。
だが、突撃するサキモリの足取りは、一点の揺らぎもなかった。
「ルミナ先生、ベクトル干渉。第一層から第三層までを相殺」
『了解! 風向、風圧、魔力震動――すべて逆演算完了。おじさん、真っ直ぐ走って!』
ルミナの意識が、サキモリの視界に幾千の数式を投影する。
吹き荒れる嵐の「力の向き」を瞬時に解析し、魔力によってそのベクトルを正面から衝突させ、無力化する。
サキモリの周囲だけが、真空のように凪いだ「安全圏」へと固定されていた。
魔法によるゴリ押しではない。
物理法則を逆手に取った「空間支配」。
地べたを這い、神の影に怯えるしかなかった人間が、今、物理の理を統べる側へと回る。
「……氣の出力を固定。足場を生成します」
サキモリは体内の「氣」を体外へと爆発的に放射。
ルミナの演算サポートを受け、大気中の分子を強引に凝集・固定し、虚空に不可視の「外氣の足場」を創り出す。
パァンッ、と乾いた音が響く。
サキモリは重力を無視し、何もない空間を蹴り上げた。
一歩ごとに空気が爆ぜ、加速は限界を超えていく。
二次元の地上戦を捨て、三次元の制空権を奪取したサキモリの姿は、さながら天空を駆ける雷光だった。
(……見える。竜の、思考の隙間が!)
風を切り裂き、ルミナの演算で嵐の隙間を縫い、サキモリはついに竜の頭上――その黄金に輝く瞳と同じ高度まで肉薄した。
竜が、初めて驚愕に近い色を瞳に浮かべる。
数万年の歴史において、羽虫が己と同じ高みに「立って」挑んできたことなど、一度としてなかったはずだ。
「ここですッ!」
竜の眼前に到達したサキモリの右手が、鋭く引き絞られる。
その手に握られているのは、先ほど砕かれた「道具」ではない。
極限まで練り上げられた「氣」。
勝利を信じる仲間の「気」。
そして、三十年の研鑽が結実した「技」。
そのすべてを、一〇%の脆弱な肉体ではなく、九〇%の「存在の出力」をもって一つに束ねた。
道具に頼らぬ、サキモリという武人の本質そのものである「拳」が、竜の眉間へと突き出される。
(第百四十八話へ続く)




