第百四十一話:【一対一の不条理】
第百四十一話:【一対一の不条理】
古龍ニドヘグの眼光が、聖域の空気を物理的な重みへと変質させた。
「――っ、身体が……動かな……」
「ルミナ! エレン、しっかり……っ!」
アリサが叫ぶが、その声すら重力に引きずられるように地に落ちる。
ニドヘグはただそこに在るだけで、三人のヒロインを不可視の重圧によって床へ縫い付けた。
それは、精霊の加護すらも無効化する絶対的な「個」の強制。
サキモリへと繋がっていた魔力のパスが、鋼鉄の断頭台で断たれたかのように唐突に遮断された。
サキモリの身体から、万能感が消える。
出力は一〇%まで急落。
今の彼は、大陸を揺るがす勇者でも、神域に手をかける魔術師でもない。
三十年の歳月を戦いと研鑽に費やしてきた、一人の逞しくも脆弱な「人間」へと引き戻された。
一〇%。
それは並の村人と同等の、生物としての最低限の出力に過ぎない。
だが、サキモリは膝の震えを、三十年の戦場経験からくる精神の規律でねじ伏せた。
一〇%の身体能力。
武器は腰のナイフ一本。
対するは、世界の記憶を司る神。
あまりに不条理な対局。
だが、サキモリの瞳に宿る光は消えていない。
(彼女たちには、まだ先がある。ここで私が崩れれば、全員がこの山の塵になるだけだ)
サキモリは、静かに右手を腰の柄へと添えた。
武人――あるいはかつて「防人」と呼ばれた者としての意地。
仲間を無事に帰還させるという唯一の至上命題が、彼の肉体をこの不条理な場に繋ぎ止めている。
ニドヘグはその巨躯を動かすことすらしなかった。
山脈のような腕から、一本の指先だけをゆっくりとサキモリへ突き出す。
それは指というよりは、天を衝く黒銀の槍。
その先端がわずかに動くたびに、周囲の空間が悲鳴を上げて歪む。
「……構えなさい、古の王よ。私は、そう簡単に折れるようには設計されていません」
サキモリが「中段」を構えた瞬間、竜の指先がわずかに、文字通りコンマ数ミリだけ揺れた。
――ゴォッ!!
ただの指の動きが、音速を超え、大気を切り裂く真空波を生成する。
サキモリは脳を限界まで加速させ、首を最小限の動作で傾けてそれを回避した。
だが、衝撃はそこで終わらない。
「――ッ!?」
回避したはずの空間が、遅れて爆ぜた。
ニドヘグが放ったのは、直進する衝撃波だけではない。
回避した先の座標に、あえて時間差で到達するように計算し尽くされた「置かれた真空波」。
逃げ場を潰す一撃が、サキモリの頬を鋭く切り裂き、鮮血が白銀の地面を汚す。
村人レベルの肉体強度では、掠めるだけで致命傷になりかねない。
傷口から伝わる熱が、これが「遊び」ですらない一方的な蹂躙であることを告げていた。
サキモリは流れる血を拭うこともせず、濁りのない瞳で巨大な指先を見上げた。
「……なるほど。私がお相手するのを、明確にご希望というわけですか」
一〇%の人間と、一〇〇%の神。
絶望という言葉すら生温い、不条理な「暇つぶし」が幕を開けた。
(第百四十二話へ続く)




