第百四十二話:【知覚の敗北】
第百四十二話:【知覚の敗北】
サキモリの視界は、もはや現実の光景を捉えていなかった。
三十年の人生、そのうちの二十年を地獄のような戦場に捧げて培われた「戦士の脳」が、強制的にオーバークロックを開始する。
竜の巨大な指先が、わずかに微動する。
その「おこり」――予備動作すら生じぬ手前の、筋肉の微かな熱量変化や大気の微振動から、サキモリの脳は瞬時に数千通りの攻撃パターンを演算し、回避すべき一点を導き出す。
(――右、三〇センチ。低空。……来る!)
身体能力一〇%の肉体を、意志の力だけで強制駆動させる。
村人レベルの反応速度を、経験による「先読み」という名のブーストで補い、サキモリの体はコンマ数秒の猶予で死線を潜り抜けた。
だが、そこからが絶望の始まりだった。
「……ッ、がはっ……!?」
回避したはずのサキモリの右腕に、肉を削ぐような衝撃が走る。
竜の指先は、サキモリの「最善の回避」をさらに先読みし、回避行動そのものを起点とした追撃を、最初の一手に潜ませていた。
サキモリの脳内インターフェースには、真っ赤に塗り潰された弾道予測ラインが氾濫している。
右に逃げれば三秒後に心破裂。
左に飛べば一秒後に頸椎損傷。
導き出されるわずかな生存ルートも、竜がその先に「置いた」次なる一手によって、一割ずつ、確実に削り取られていく。
「……見事な……論理性だ……」
サキモリは、荒い呼吸と共に吐き捨てる。
竜の攻撃には無駄がない。
それどころか、サキモリが「どう避けるか」という戦術的癖すらも即座に学習し、回避した先に網を張る。
理解し、把握し、そして回避したとしても、その先で死神が待っている。
これまでは「知覚」で凌駕し、「技術」で格差を埋めてきた。
だが目の前の古龍は、知覚においても、技術においても、サキモリを絶望的な高みから見下ろしている。
(……一〇%では、最適解を選び続けても、演算が『死』に収束するのを遅らせるのが精一杯か)
再び、竜の指先が揺れる。
サキモリは脳を焼くほどの熱量で未来を視るが、もはや予測ラインのすべてが「DEAD」の文字で埋め尽くされていた。
――ゴォッ!!
紙一重。
否、もはや「紙一重」ですらない。
直撃こそ免れたものの、竜が置いた「隠された一手」の余波が、サキモリの体躯を無慈悲に薙ぎ払った。
「――っ、く……あ……!」
地面を転がったサキモリの右腕からは血が噴き出し、肋骨がひび割れる鈍い音が自身の内側から響く。
立ち上がるサキモリの視界は血に染まり、限界を超えた脳が激しい警告音を鳴らし続けていた。
「……見えていても、避けても……。それでもなお、力量も、技量すら足りない……」
目の前の巨躯は、まだ一度も「本気」を出していない。
ただ指を一本、退屈そうに動かしているだけだという事実。
その不条理な格差が、サキモリの「論理」を静かに、しかし冷酷に削り取っていく。
(第百四十三話へ続く)




