第百三十九話:【聖域の境界線】
第百三十九話:【聖域の境界線】
最後の一歩を越えた瞬間、耳を劈いていた吹雪の咆哮が、断頭台の刃が落ちたかのように途絶えた。
そこには、恐ろしいほどの静寂があった。
空は宇宙を思わせる深い藍色に染まり、風も、雪も、雲すらない。
ただ、肺を焼くほどに澄み渡った、絶対的な無音。
「……何ですの、ここ。急に、世界から音が消えたみたいで……」
エレンが不安げに声を出す。
だが、その声は数メートル先まで届かず、不自然に途切れて霧散した。
一歩。アリサが足を踏み出す。
その瞬間、彼女は平衡感覚を失い、たたらを踏んだ。
「ッ、視界が……歪んで……!?」
そこは安息の地などではなかった。
大気中に漂う「竜の息吹」の濃度があまりに高すぎるため、光も音も、果ては重力の方向さえもが複雑に屈折している。
目の前の岩場が、次の瞬間には遥か遠くへ離れ、平坦に見える地面が急峻な崖へと変貌する。
物理法則そのものが、古の竜の存在感によって書き換えられた「狂った領域」だった。
「目を開けていては、数分で三半規管が焼き切れます。全員、目を閉じてください」
サキモリは視覚情報を完全に遮断し、冷徹に告げた。
彼はルミナに意識を接続。自分たちを中心に、周囲の魔力密度をミリ単位でスキャンする。
「ルミナ先生、音響探査と同じ原理でお願いします。魔力の揺らぎを逆演算して、物理構造を再構築してください」
『了解。……三次元マッピング開始。おじさん、右へ三歩。そこにあるのは壁ではなく、空間の歪みよ。そのまま通り抜けて』
サキモリはルミナの演算だけを信じ、目に見える「断崖」へと迷いなく踏み込む。
アリサとエレン、ルミナの手を引き、物理的に存在しない落とし穴を避け、偽りの平地を歩んでいく。
視覚というもっとも信頼すべき感覚を捨て、データの論理のみに従うその歩みは、観測者たるサキモリにしか成し得ない進軍だった。
「……不自然な魔力の乱れ、収束。目標、この先です」
歪んだ空間を抜け、一行は山頂の火口跡にも似た広大な円形庭園へと辿り着いた。
そこには、周囲を威圧するようにそびえ立つ、巨大な「紺碧の岩の塊」があった。
数万年の歳月が、その表面を硬質な結晶へと変えたのだろうか。
周囲の重力を歪めるほどの質量を持つその塊は、ただそこにあるだけで、聖域の頂点に相応しい威厳を放っていた。
「……これが、竜の隠れ家なのですか?」
アリサが安堵混じりの溜息をついた、その時だった。
――ドクン。
山全体を揺るがすような、巨大な鼓動。
「岩の塊」だと思っていたものが、ゆっくりと、しかし確実に脈動を開始した。
表面の氷が砕け散り、結晶化した鱗が重なり合う不気味な音が静寂を切り裂く。
それが山の一部などではなく、単一の生命体であると理解した瞬間、空間そのものが恐怖で震え上がった。
(第百四十話へ続く)




