第百三十八話:【高度4000の酸欠】
第百三十八話:【高度4000の酸欠】
標高四千メートル。そこは生命の生存を許さぬ、神域の入り口であった。
サキモリが切り拓く雪道を、這うように進んでいたエレンが、唐突に膝を突いた。
「……はぁ、っ……か、は……っ……」
エレンの唇はどす黒く変色し、顔色は土気色に沈んでいる。
肺が空気を求めて激しく上下するが、どれほど吸い込んでも酸素が足りない。
酸素濃度の低下と低気圧による急性高山病。ついに彼女の限界を超えた。
「エレン! ルミナ、回復魔法を! 私の魔力を分けてでも……!」
狼狽えるアリサが叫ぶ。
だが、要請を受けたルミナが呪文を紡ぐよりも早く、サキモリの手がそれを制した。
「待ちなさい。魔法による強引な活性化は、かえって心臓への負荷を上げ、肺水腫を誘発します。今必要なのは魔力ではなく、物理的な酸素だ」
サキモリはアリサの焦りを冷静に抑え、背負っていた革袋を手に取った。
彼は「調合」スキルを発動。袋の中の大気を分解し、二酸化炭素と窒素を間引き、酸素密度を極限まで高めていく。さらに魔力で内圧を固定し、即席の「簡易酸素ボンベ」を構築した。
「これを。ゆっくりと、吐き出すことを意識して吸いなさい」
サキモリはエレンの口元に革袋を当て、微調整された高濃度酸素を送り込む。
数分後、死を待つようだったエレンの瞳に、わずかな生気が戻り始めた。
「……あ、りがとう、ございます……。私としたことが、情けない……精神力が、足りないせいで……」
「エレンさん、それは違います。これは精神論で解決する問題ではなく、単なる物理的な生理現象です」
サキモリはエレンを抱き起こしながら、残る二人にも順に酸素を吸わせた。
「どれほど強い魔力を持とうと、細胞を燃やす燃料がなければ人間は機能停止する。恥じる必要はありません。ここで数時間、高度順応を行います。体が気圧の変化に馴染むまで、一歩も動きません」
一刻を争う聖域への登頂。
しかしサキモリは、冷徹なまでに合理的な判断で「完全な静止」を選んだ。
焦る仲間たちを落ち着かせ、科学的な休息を強いるその姿は、冷淡に見えて、誰よりも確かな「生」への確信に満ちていた。
数時間の停滞。
サキモリの徹底した管理により、四人の心拍と血中酸素濃度が安定を見せ始める。
「……進みましょう。ここからが本当の境界線です」
再び歩み出した一行が、最後の一振りの絶壁を越えたその時。
背後で荒れ狂っていた猛吹雪が、鏡で切り取ったかのように突如として消滅した。
目の前に広がるのは、雲を眼下に見下ろす、不気味なほどに凪いだ「無音の境界線」。
風の音すら存在しないその静寂の空間は、物理法則の支配が及ばぬ、異質な存在の気配を湛えていた。
(第百三十九話へ続く)




