第百二十二話:【アンテナの構築】
第百二十二話:【アンテナの構築】
「視覚情報は既に死んでいます。エレンさん、右手を。アリサ殿、私の声のする方へ盾を向けてください」
サキモリの指示が、濃密な霧を切り裂いた。
原生林の「ジャミング」は、さらに出力を上げている。
既に一メートル先を歩く仲間の顔すら認識できない。
色彩は失われ、音の反響すらも狂わされていた。
常人であれば、己の存在そのものが世界に溶け出したような恐怖で、一歩も動けなくなる極限状態だ。
しかし、サキモリの足取りには微塵の迷いもない。
二十年間、五感が役に立たない夜戦や煙幕の中で、血の匂いと風の揺らぎだけで死線を潜り抜けてきた男にとって、この程度の「情報の欠損」は日常の範疇に過ぎなかった。
「サキモリ様、ここですわ! ですが、これでは狙いも何も……」
手探りでサキモリの手を掴んだエレンの声には、隠しきれない不安が混じっていた。
亡国の姫君として育てられた彼女にとって、戦いとは常に「見える敵」を射抜くことだった。
だが今、エレンの魔力矢を放つべき敵は、物理的な距離も方角も不明な霧の彼方に消えていた。
「狙う必要はありません。エレンさん、その矢を放たずに、私の指示する位置に固定してください」
サキモリはアリサを背後に立たせ、その白銀の概念盾『アイギス』を特定の方角へと向けさせた。
「アリサ殿、盾を三〇度、上向きに。……そうです。そのまま固定してください。この『アイギス』の曲面を、パラボラ反射板として流用します」
「反射板……? 物理攻撃ではなく、霧を弾くのですか?」
アリサが当惑しながらも、寸分の狂いなく盾を保持する。
サキモリはその盾の焦点となる位置に、エレンの魔力矢を逆さに突き立てさせた。
「この矢は今後、攻撃手段ではありません。霧の術式波形を拾い上げる『受信アンテナ』として機能させます。ルミナ先生、アンテナの基部に手を。エルフであるあなたの魔力を増幅器として使い、微弱な信号を可視化できるレベルまで引き上げてください」
「了解……。でも、おじさん、無理はしないで……」
エルフの聖女であるルミナが矢の根本を握ると、淡い青光が回路のように矢の表面を走り始めた。
中世の伝説に残る聖盾、姫君が放つ至高の魔力矢、そしてエルフの聖女の癒やし。
それらファンタジーの象徴たる「装備」が、サキモリの配置指示によって、見る影もなく変貌していく。
盾は電波を集める皿へ。
矢は信号を受信し放射する素子へ。
そして癒やしの魔力は情報を処理するための電力へと。
霧の中に浮かび上がるそのシルエットは、もはや戦士の集団ではない。
密林の奥底で敵の通信を傍受する、無機質な「移動式レーダーサイト」そのものであった。
「……同期、完了。信号の抽出を開始します」
サキモリが懐中時計の盤面を鏡のように使い、反射する光の歪みで波形のノイズを読み取る。
ルミナの魔力を通じ、矢の先端がジジ……と小さく震え始めた。
精神を蝕む霧の正体――。
それは、森全体から放射されている「不協和音」だ。
サキモリはその混沌としたノイズの中から、特定の規則性を持つ「術式の中心核」の場所を、計算によって逆算していく。
「おじさん、これ……すごい。頭の中に、変な音が聞こえる。でも、おじさんが触れてると、その音が一本の線になって見えるよ」
ルミナが驚きの声を上げた。
聖女としての記憶保持能力が、サキモリの脳内にある「レーダー解析」のイメージと共振し、実在しないはずの「目印」を空間に描き出していく。
「サキモリ様、霧が……。いえ、霧は晴れていませんのに、向かうべき場所が『視える』気がいたしますわ!」
エレンが驚嘆に目を見開いた。
彼女の瞳には、真っ白な闇の中に一本だけ、デジタル信号のような鋭い光のラインが、原生林の奥へと伸びているのが映っていた。
サキモリは満足げに、アンテナとなった矢の角度を微調整した。
「神秘を解体すれば、残るのはただの構造です。波長を捉えました。次は、この不協和音を黙らせましょう」
サキモリが指し示した方向。
そこには、原生林のジャミングを統括する「中継器」――あるいは、それらを操る精霊の斥候が潜んでいる。
霧の絶対領域に、近代戦術の楔が打ち込まれた瞬間だった。
(第百二十三話へ続く)




