第百二十一話:【波形の観測】
第百二十一話:【波形の観測】
「――止まってください。これ以上は、五感というインターフェースが保ちません」
サキモリの低く、乾いた声が原生林の入り口に響いた。
一歩。たった一歩、アステリア大陸の『未踏の原生林』に足を踏み入れた瞬間、世界は変質した。
頭上を覆う巨大な樹冠からは、陽光の代わりに粘り気のある「闇」が滴り落ちている。
色彩は混濁し、右を向けば左の景色が流れ、地面はまるで液化したかのように足元でうねっていた。
「……っ、サキモリ殿! 下がってください!」
白銀の鎧を鳴らし、アリサが前に出る。
手元で概念盾『アイギス』が白光を放った。
物理的な破壊だけでなく、あらゆる魔的干渉を遮断する騎士の誉れ。
だが、その光すらも霧に吸い込まれ、輪郭がボヤけていく。
「敵が見えませんわ……! サキモリ様、これは……呪い、ですの?」
エレンが弓を番えたまま、苦しげに問う。
優れた視力ですら、数メートル先の樹木が怪物に見えたり、愛用の弓が蛇に変わったりする幻覚に晒されていた。
一方、サキモリは膝を突き、指先で懐中時計の竜頭を巻いていた。
現在の出力は、わずか10%。戦闘能力は皆無。
だが、その佇まいに動揺はない。
並行世界の戦場にて、二十年間にわたり空母や爆撃機を相手に刀一本で抗い続けた「兵士」の精神は、五感が揺らぐ程度では崩れなかった。
「ルミナ先生、同期を維持してください。私の意識が表層から滑り落ちそうになったら、強制的に『現在地』をリライトして呼び戻すんです」
「了解……。でも、おじさん、無理はしないで……」
背後で、癒やしと記憶を司るルミナがサキモリの肩に手を置く。
ルミナという「メモリ」がなければ、サキモリの自己同一性は今ごろ霧に溶け去っていただろう。
サキモリは、歪む視界の中で懐中時計の秒針だけを凝視していた。
(……一秒、二秒。三秒で色彩が反転します。四秒で耳鳴り。五秒で心拍数が15%上昇……。パターンが見えてきました)
異常事態を「恐ろしい精霊の魔法」とは捉えない。
脳内にある近代兵器の知識――電子戦における信号解析のフレームワークが、幻想的な脅威を無機質なデータへと置換していく。
「アリサ殿、盾の光を一定周期で明滅させてください。三秒点灯、一秒消灯です。エレンさん、魔力矢を放ってはいけません。弦を弾いて音だけを響かせるんです。メトロノームのように」
「は、はい!」
「了解いたしましたわ、サキモリ様!」
指示通り、白銀の光が明滅し、硬質な弦の音が森に響く。
幻覚の渦中で、その「規則正しいリズム」だけが、唯一の現実の楔として一行を繋ぎ止める。
「サキモリ殿、何がわかったのですか?」
アリサが盾を構え直しながら問う。
サキモリは立ち上がり、鋭い眼光で霧の深淵を射抜いた。
その瞳には、もはや恐怖の色はない。
「この森を覆っているのは、意志ある攻撃ではありません。一定の周波数で全方位に放射されている、広域帯の『精神干渉波』です」
サキモリは、歪んだ光景を指差した。
「特定の波長を脳の認知領域にぶつけ、情報の処理順序を意図的にズレさせている。中枢神経に対する物理的なノイズ……。軍事用語で言うなら、これは魔法などではありません。――ただの『ジャミング』です」
「ジャミング……?」
聞き慣れない言葉に、エレンが首を傾げる。
「そうです。神秘でも何でもない、単なる物理現象に過ぎません。波形さえ特定できれば、打ち消す方法はいくらでもある。……精霊だか何だか知りませんが、随分とアナログな防御システムを使っているようです」
その断定が下された瞬間。
ざわり、と原生林の空気が震えた。
解析されたことを嫌ったのか、あるいは「理」を暴かれたことに驚いたのか。
深い霧の奥、数千年間も人間を拒絶し続けてきた沈黙の奥底から、無数の、そして冷徹な「視線」が、出力10%の異邦人を射抜いた。
「アリサ殿、エレンさん、ルミナ先生。……『電子戦』を始めます。私の観測を信じてください」
サキモリの静かな宣言が、大森林の静寂を切り裂いた。
理不尽な魔法の支配を、近代の論理が侵食し始める。
(第百二十二話へ続く)




