第百十九話:ルミナの歌、記憶の海
第百十九話:ルミナの歌、記憶の海
浮遊廃都セレスティアの中枢へと続く、静寂に包まれた円環の回廊。
先ほどの激戦の余韻が冷めやらぬ中、一行の歩みは重かった。
特に、観測と計算に全神経を注ぎ込んだサキモリの足取りは、目に見えて危うくなっている。
「……おじさん、顔色が真っ白だよ。ちょっと休もう?」
ルミナが心配そうに覗き込むが、サキモリの瞳はどこか遠くを見つめたまま、焦点が合っていない。
彼の輪郭が、廃都の青白い光に溶け込むように微かに震え、透け始めていた。
存在の希薄化――この世界における彼の「命」が、また一削り分、限界に近づいている証拠だった。
「大丈夫です。……ただ、少しだけ『今日』が遠い……」
サキモリの声は、風に吹かれれば消えてしまいそうなほど頼りない。
彼は今、自分がなぜここにいるのか、今日誰と何を成し遂げたのかという記憶の断片を、指の間からこぼれ落ちる砂のように失いかけていた。
「ダメ、眠っちゃダメだよ! おじさん、私の声を聞いて!」
ルミナはサキモリの冷え切った手を両手で包み込み、必死に語りかけ始めた。
それは魔法でも儀式でもない。
ただ、彼をこの「今」という現実へ繋ぎ止めるための、必死の呼びかけだった。
「いい、おじさん? 今日はね、アリサちゃんがカッコよく盾で守ってくれたんだよ。エレンさんもね、おじさんの教え通りに空を焼くようなすごい矢を放ったの。……おじさんが、私たちを導いてくれたんだよ?」
ルミナは、今日起きた出来事を一つひとつ、丁寧に言葉にして紡いでいく。
アリサが盾を構えた時の金属の音、エレンの放った魔導の矢が空を白銀に染めた光景。
ルミナの言葉がサキモリの凍りついた意識を溶かし、バラバラになりかけた記憶のパズルを、再び彼の心に刻み直していく。
だがその時、ルミナの意識がサキモリの深淵へと深く沈み込んだ。
(……え? なに、これ……)
サキモリの存在を固定しようとするルミナの視界に、異質なビジョンが流れ込んできた。
それは、ルミナの知る「世界」とはあまりにかけ離れた、絶望的な光景だった。
空を突き刺すほど巨大で、窓の一つもない灰色の巨塔。
ガラスの破片が砂のように敷き詰められた、無機質な路地。
かつては何かを運んでいたのだろう、錆びついて動かなくなった巨大な鉄の獣の残骸。
美しさなど微塵もない、機能と冷徹さだけが支配し、そして滅び去った「現代」の廃墟。
「……っ!」
ルミナは息を呑んだ。
そこは、豊かな精霊の加護も、温かな魔法の光もない場所。
サキモリがかつていたという「故郷」の真の姿。
この世界の理のどこを探しても存在しない、致命的な「バグ」のような光景だった。
(おじさんは……こんなに寒くて、寂しい場所にいたの?)
恐怖よりも先に、底知れない悲しみがルミナの胸を突いた。
サキモリが常に正解を求め、効率を優先し、感情を排して動こうとする理由。
それは、この色彩を失った世界で生き残るために彼が身につけた、悲しい武装だったのではないか。
「……ルミナ先生、出力が安定しました。……顔色が悪いですよ」
不意に、サキモリの声が現実の温度を取り戻した。
ルミナはハッとして、自分の頬を伝う涙を拭う。
サキモリの瞳には、再び知性の光が宿っていた。
「……ううん、なんでもない。おじさんが、ちゃんと戻ってきてくれたから。嬉しくて」
ルミナはそう言って、努めて明るく笑ってみせた。
彼が見てきた絶望を、今はまだ問い詰めることはできない。
ただ、二度と彼をあの灰色の風景の中に一人で帰してはならないと、少女は心に強く誓った。
「……到着しました。ここが、セレスティアの心臓部です」
サキモリが指し示した先。
回廊の行き止まり、廃都のエネルギーを司る巨大な魔導装置の核に、一行はたどり着いた。
そこには、かつてこの空を飛び、そして姿を消した「先代の勇者」が残したであろうメッセージが、古びた石板に深く刻まれていた。
『――理の外から来た者へ。この世界の正解を求めるな。書き換えろ』
その言葉は、サキモリの持つ「知識」が、この世界の救いとなるのか、あるいは破滅の引き金となるのかを問うているようだった。
(第百十九話:完)




