第百十一話:コーヒーの味を忘れる日
第百十一話:コーヒーの味を忘れる日
魔王ジャバウォックとの死闘から数日が経過した。
王都の朝は、驚くほど静かだった。
サキモリはいつものように、支給された軍宿舎のテラス席に座り、昇る朝日を眺めていた。
「おじさん、おはよう! 今朝は一段と冷えるね」
元気よく現れたのはルミナだ。
彼女の手には、湯気を立てる二つのカップがある。
彼女が淹れるコーヒーは、サキモリにとって「日常」を象徴する、数少ない安らぎの味だった。
「……おはようございます、ルミナ先生」
サキモリはいつものように、物腰柔らかく応じる。
だが、差し出されたカップを手に取った瞬間、彼の中に「奇妙なノイズ」が走った。
(……これは、何だ?)
視界の端が、テレビの砂嵐のように一瞬だけ白く弾ける。
手の中にあるカップには、確かに「黒い液体」が入っている。
だが、サキモリの脳は、それが「コーヒー」であるという情報と結びつかない。
一口、口に含む。
熱い。苦い。……それだけだ。
かつて感じたはずの、豆の芳醇な香りも、ルミナが心を込めて淹れたという「感覚」も、すべてが情報の残骸となってすり抜けていく。
「おじさん? どうしたの、難しい顔して」
ルミナが不安げに覗き込む。
その瞬間、サキモリの意識が不自然に飛んだ。
一秒。
いや、零点五秒。
世界が一瞬だけ「静止画」になり、次の瞬間には、ルミナの立ち位置がわずかにズレていた。
「……いえ。少し、演算が遅延したようです。ルミナ先生」
サキモリは平静を装い、軍帽を深くかぶり直した。
だが、異変は加速していく。
昼過ぎ、エレンとアリサを交えて戦後処理の打ち合わせをしている最中、アリサが息を呑んで立ち上がった。
「サキモリ殿……貴殿の腕が!」
アリサが指差した先。
サキモリが書類を掴んでいる右腕が、初夏の陽炎のようにゆらゆらと揺らめき、向こう側の景色が透けて見えていた。
まるで、この世界の解像度が彼という存在を維持できず、データが破損し始めているかのような、不気味な静寂。
「……痛覚、異常なし。視覚、九十八パーセントを維持。……問題ありません」
「問題大ありですわ!」
エレンが珍しく声を荒らげ、彼の腕を掴もうとした。
だが、彼女の手はサキモリの肌に触れる直前、何もない空間を掴むような奇妙な手応えと共に、わずかに滑った。
王立魔導研究所の最深部。
最新の魔導スキャン装置にかけられたサキモリを前に、王国の賢者たちは真っ青な顔で診断結果を読み上げた。
「……サキモリ殿。貴殿の術式構造は、本来この世界に定着するためのものではない」
賢者は震える指で、空中投影されたサキモリの「存在グラフ」を指し示した。
「貴殿の力は『防衛』に特化しすぎている。
自国領内や守るべき対象が明確な場所では鉄壁だが、敵地へ侵攻し、魔王を討つために『攻撃』に転換し続ければ、世界との同期が致命的に削れていく」
つまり、魔王を倒すために振るったあの圧倒的な暴力は、サキモリ自身の「存在の対価」だったのだ。
「継続的な高負荷戦闘を行えば、貴殿の記憶は摩耗し、最後には肉体ごとこの世界から『消滅』する。……サキモリ殿、貴殿はもう、一人で全力を出してはならない」
静まり返る室内。
「最強」と呼ばれた男に突きつけられたのは、戦うたびに自分が消えていくという、残酷なカウントダウンだった。
サキモリは、透け始めた自分の手を見つめる。
味を忘れたコーヒー。
一秒の空白。
最強の兵器が迎えた、あまりに静かな落日。
「……なるほど。使い道を、間違えたということですか。アリサ殿、エレン。……ルミナ先生」
感情を排した彼の呟きが、研究所の冷たい壁に虚しく響いた。
サキモリを包む影は、かつてないほど希薄で、今にも消えてしまいそうだった。
(第百十一話:完)




