第百五話:赤黒い笑顔の不在
第百五話:赤黒い笑顔の不在
魔族領の軍事国家『ジャバウォック』。その中枢、王城の回廊は、かつてない静寂と熱気に支配されていた。
サキモリは、一人で進んでいた。
かつての穏やかな足取りではない。一歩踏み出すごとに軍靴が床を粉砕し、赤黒く変色した軍服から立ち昇る蒸気が、豪華な装飾を施された壁を黒く焦がしていく。
「……ア、ガ……。……心拍数、維持」
サキモリの瞳には、もはや知性ある人間の光は宿っていない。
赤黒く濁ったその双眸は、ただ「標的」までの距離と、周囲の敵の「構造」だけを捉え続けていた。
彼にとって、この行軍はもはや戦いですらない。邪魔な物質を排除し続けるだけの、冷徹な事務作業だ。
その頃、遥か後方の荒野では、三つの影が必死にジャバウォックを目指していた。
東、中央、南部からそれぞれ生き残ったわずかな兵を率い、ボロボロになりながら進軍するエレン、アリサ、そしてルミナ。
「サキモリ様……待っていてください……!」
「おじさん……絶対、死なせないんだから!」
彼女たちは、伝令から届く「サキモリが一人で敵拠点を蹂躙している」という信じがたい報告に、希望と、それ以上の「得体の知れない不安」を感じていた。
伝令兵が震えながら語った、サキモリの変貌。笑顔を失い、黒い霧を纏って敵を肉塊に変えていくその姿は、彼女たちの知る「優しいおじさん」とはあまりにかけ離れていたからだ。
しかし、当のサキモリに、彼女たちの心配が届くことはない。
今の彼は、己の情緒さえも戦闘リソースとして焼き尽くし、ただの「暴力の塊」へと成り果てていた。
「……障害物、確認」
城主の間へと続く最後の回廊。
そこには、ジャバウォックの王を守護する最強の近衛兵たちが、死を覚悟した形相で立ち塞がっていた。
純魔族の中でも選りすぐりのエリートたち。だが、サキモリが歩みを止めないのを見て、彼らの顔が恐怖に歪む。
サキモリが、ただ横に腕を振った。
シュン、という短い風切り音。
次の瞬間、近衛兵たちの強靭な肉体は、サキモリの指先が触れるまでもなく、放たれた衝撃波によって内部から破裂し、沈黙した。
感情のない、あまりに効率的な間引き。
返り血を浴びることさえ厭わず、サキモリはついに目的地へ到達する。
眼前にそびえ立つのは、ジャバウォック城城主の間を閉ざす、巨大な鋼鉄の門。
この向こうに、今回の派兵を指揮し、世界を壊そうとした魔王の一人、『ジャバウォック』がいる。
「…………」
サキモリは言葉を発しない。
ただ、その赤黒い眼光が扉を射抜き、全身から放たれる高熱が周囲の空気を陽炎のように歪ませる。
心臓は三倍の速度で脈打ち、激痛が脳を焼き続けている。だが、その狂気こそが、今の彼を支える唯一の理だった。
黒い霧が、門を包み込む。
すべてを終わらせるための、最後の一歩。
(第百五話:完)
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