第百二話:十万の軍勢 vs 一人の軍人
第百二話:十万の軍勢 vs 一人の軍人
アルタ王国の外壁を埋め尽くしていたのは、絶望という名の黒い波だった。
ドラグナイトは討たれた。しかし、残されたのは十万を超える魔族の大軍勢。
彼らは一人の「怪物」を包囲し、その物量で圧殺せんと全方位から殺到する。
「……数か。無意味な変数を積み上げたものだ」
サキモリの声は、熱を失った機械のように冷たい。
全身から立ち昇る黒い霧が、陽光を遮り、戦場に不自然な夜を作り出す。
「殺せ! たった一人だ! 矢を射ろ! 魔法を叩き込め!」
魔族の将軍が絶叫し、空を覆い尽くすほどの矢と火球がサキモリに降り注ぐ。
だが、次の瞬間、敵軍は「物理の限界」を目の当たりにすることになる。
サキモリは、動いていないように見えた。
しかし、彼がわずかに肩を揺らし、一歩を踏み出すたびに、飛来する数千の矢は虚空を切り、爆炎は彼が「かつていた場所」を無意味に焼くだけに終わる。
「回避、終了」
サキモリの脳内では、敵が引き金を引くよりも早く、すべての弾道予測が完了している。
彼にとって、十万の軍勢による波状攻撃は、スローモーションで流れる映像に過ぎない。
攻撃が放たれた段階で、サキモリの肉体はすでに「死線」の外側に位置しているのだ。
「……邪魔だ」
サキモリが静かに歩を進める。
ただの「歩行」。だが、彼が通り過ぎるたびに、周囲一帯の魔族たちが音もなく「塵」へと変わっていく。
三十倍に跳ね上がった筋力による超高速の拳。
あるいは、拾い上げた敵の武器による一閃。
あまりの速さに、斬られたことさえ気づかず、敵は武器を握ったまま崩れ落ちていく。
サキモリの後ろには、折れた剣の残骸と、血の跡さえない沈黙だけが残された。
一歩で百、十歩で千。
十万いたはずの軍勢が、まるで砂時計からこぼれ落ちる砂のように、事務的に、確実に、その数を減らしていく。
「バ、バケモノ……! 逃げろ! 北だ! 北へ逃げろ!!」
ついに魔族たちの精神が崩壊した。
最強の軍団としての矜持は消え失せ、残った数万の兵たちは、武器を捨てて北の方角――彼らの本拠地である魔族領へと向けて、無様な敗走を始めた。
サキモリは、逃げる背中を追わなかった。
彼は赤黒く光る眼光で、遥か北の地、空が不吉な紫に染まる魔族の本拠地をじっと睨み据える。
バルバロイ、東、中央、そしてこの南部。
四つの国を攻め立て、サキモリの大切な守りたい3人の少女たちを絶望の淵に追いやった者たちが、今、一つの場所に集まろうとしている。
「……そこに、いるんだな」
サキモリの体内では、依然として心臓が三倍の速さで脈打ち、全身の血管が激痛に震えている。
だが、その苦痛さえも、彼は冷徹な怒りの燃料へと変えた。
すべての元凶を、根こそぎ解体するために。
黒い霧を纏った一人の軍人は、血に染まった大地を後にし、魔の王が待つ北の地へとその視線を向けた。
(第百二話:完)




