ファントム、協力する16
「……全ミッション、完了だな。負傷者は?」
「お前以外、みんなかすり傷ひとつねぇよ」
そう言いながら、瀬尾が美術室に入ってきた。床にはうめくだけで、起き上がることができないマッド・ドッグの巨体だけが転がっていた。
「生徒は?」
「俺が運ぶわけにはいかねえだろ? だから玲奈ちゃんが他の先生を呼んで、避難した」
その報告に、灰島は小さく息を吐く。
「……何者だ? てめぇ」
歯がいくつか折れているのだろう。息の漏れる小さな声でそう呻くマッド・ドッグに、瀬尾はニヤリと笑う。
「こいつはなぁ」
「日本の国防直轄調査室、つまりコクチョウのファントムよ。おバカなマッド・ドッグ」
質問に答えたのは、屋上から降りてきたセレスティーナだった。
「おまっ、MI6の……、あ? ……ファントム……?」
床に転がったまま、マッド・ドッグの瞳が、初めて恐怖と驚愕に見開かれた。 痛みで霞む意識の中、その「名」が彼の全ての常識を打ち砕く。 セレスティーナは、その哀れな獣を見下ろし、心底楽しそうに微笑んだ。
「全く、貴方が私を見つけたみたいだから、遊びに来るかと思ったのに、ファントムとこんな楽しい遊びをしてるなんて……。私も一緒に遊びたかったわ」
そう言いながら、セレスティーナは灰島の膝の上にストンと座った。
「……どけ」
「嫌よ。あぁ、本当に私の好みだわ。出来れば私がこうしたかったのに」
うっとりとそう語るセレスティーナに、灰島は眉間にしわを寄せるが、その態度にすら恍惚とした表情で「素敵」と言う始末。
「ちっ……聞いてねえぞ、そんなことは……!」
セレスティーナの声など聞こえるはずもなく、マッド・ドッグはゆっくりと灰島へと視線を移した。
そこにいたのは、ただの屈強なエージェントではない。裏社会で、その名を敵に回せば死を意味する、伝説の「亡霊」。
自分は、MI6の雌豹を狩るつもりが、その背後に潜んでいた、本物の「怪物」に、喉笛を噛み切られていたのだ。
マッド・ドッグは、血反吐を吐きながら、自嘲するように笑った。 その瞳からは、もはや全ての戦意が消え失せていた。
「……お前が、相手だと分かっていれば、こんな、無様なマネ、するかよ……」
それはプロの傭兵としての、最大級の「敗北宣言」だった。 敵が弱かったのではない。相手が規格外すぎた。 彼の戦士としてのプライドは、完全に打ち砕かれた。
瀬尾がナイフを拾いながら、マッド・ドッグに言う。
「お前の敗因は、情報不足。次からは……、いや、次は無ぇか」
マッド・ドッグは血を吐きながら、乾いた笑みを浮かべる。敗北を認めた男の顔だった。
階下から、大勢の人が上がってくる気配がした。
「大丈夫。消防隊員を装ったうちのエージェントよ。一緒に帰りましょう? ダーリン」
「……断る」
「はいはい、マダム。その辺にしといてね。うちのボスは満身創痍なんだ。あんたの羽のような体重でも堪えんのよ」
瀬尾が軽口を叩きながら、灰島に肩を貸そうと近づく。
「あら、私たちの時間に、水を差す気? クラブ」
「滅相もない。あんたの部下が来る前に、こっちはお暇させてもらうってだけ」
セレスティーナは、つまらなそうに唇を尖らせたが、そっと灰島の耳元で囁いた。
「約束通り、『額縁』はいただくわ。……でも、また解決すべきことがあるから、すぐに会えるわね、ファントム」
彼女は名残惜しそうに立ち上がると、部屋に入ってきた部下たちに、マッド・ドッグの身柄確保と額縁の回収を冷静に指示し始めた。
そして、瀬尾に肩を支えられながら、灰島は無言で美術室を後にする。 残されたのは、MI6に回収されていく事件の「残骸」と、けたたましいベルの音だけ。
こうして、ナチスの亡霊を巡る長い一日は、ようやくその仮初めの「終幕」を迎えたのだった。




