ファントム、見守る9
それから、数日間――。
彼らは静かに三枝先生への監視作戦を開始した。
瀬尾はセグレトの2階に籠もり、三枝のあらゆるデジタルデータを監視していた。金の動き、通話履歴、インターネットの閲覧記録など、すべてだ。しかし、出てくるのは美術関連サイトと通販の履歴ばかりで、あまりにもクリーンだった。
灰島は、毎朝のランニングコースを変更し、三枝の通勤経路を監視した。彼の行動もまた、平凡そのものだった。自宅と学校を往復するだけ。誰かと密会するそぶりもない。
学校内部では、玲奈が報告を入れていた。
「三枝先生、最近なんだかすごく疲れてるみたい。時々、ぼーっとしてるし、少し痩せたかも……」
浮かび上がってきたのは、巨万の富を手に入れた狡猾な犯罪者の姿ではなかった。 むしろ、何かに怯え、追い詰められ、憔悴している、哀れな一人の男の姿だった。 謎は、深まるばかりだった。
「先生におかしなところはないんだけどね、この額については新しい情報があるんだけど、聞く?」
少し得意そうにそう言った瀬尾に、灰島は静かに「話せ」と返す。
「ちょっとね、この額が素晴らしい美術品だったとして、なんで国際刑事警察機構(ICPO)まで出てきてんのか、不思議だったんだよね。で、ちょっと潜って調べたら、これだった」
彼がPCの画面に映し出したのは──。
『ナチスによる略奪美術品一覧』
「なにこれ?」と玲奈が質問した。 画面に映る『ナチスによる略奪美術品一覧』という禍々しい文字と、モノクロの写真の数々。
「玲奈ちゃんは世界史が得意だったかな?」
瀬尾は教師が出来ない生徒に教えるような、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「第二次大戦中、ドイツのナチスはヨーロッパ中のユダヤ人から土地や宝石だけじゃなく、膨大な美術品を根こそぎ奪い取ったんだ。その数60万点以上。今も多くが行方不明のままで、世界中の美術館やコレクターが血眼になって探してる。この『ロスチャイルド・フレーム』も、その最重要リストの一つってわけだ」
瀬尾の説明に玲奈は息を飲む。だが彼は話を続けた。
「で、ここからが本題だ。ナチスはただの強欲な泥棒じゃない。奴らには歪んだ『美学』があった」
彼はPC画面を切り替える。そこに映し出されたのはピカソやシャガールといった現代アートの巨匠たちの作品だった。
「こういう前衛的なアートやユダヤ人芸術家の作品を、ナチスは『退廃芸術』と呼んで忌み嫌ったんだ。『堕落した不健全なゴミだ』ってね。そうやって集めた数万点の『退廃芸術』を見せしめのために展覧会で晒した後……その多くを燃やしちまった」
「燃やした!?」
「ああ。ピカソ、ダリ、クレー……、今じゃ一枚何十億もする人類の宝が灰になった。……さて」
瀬尾はそこで一度言葉を切ると、いたずらっぽく笑った。
「ここでクイズだ。この『ロスチャイルド・フレーム』は金ピカで豪華な、いかにもナチスが好きそうな古典的なフレームだ。だが、もしこの額縁に元々収まっていた絵が、ピカソの傑作だったとしたら? ……どうなると思う?」
その問いに、最初に答えを導き出したのはユキだった。
「……なるほど。つまり、こういうことね。ナチスは額縁だけを奪った。彼らにとってこのフレームは第一級の『健全な』美術品だった。だが中に収められていた絵画は唾棄すべき『退廃芸術』だった」
ユキは静かに結論を述べた。
「――だから彼らは、額縁だけを抜き取り、絵は燃やした。この額縁は、それ自体がお宝であると同時に、ナチスによって永遠に失われた、幻の『名画』の存在を証明する唯一の『棺』でもある、ということね」
そのあまりにも的確で、そして悲しい「正解」。閉店間際のセグレトは、いつも以上に静まり返った。彼らが今追っている事件の背後にある、歴史の深く暗い闇の存在に、全員が気づかされた瞬間だった。
「まあ、それはあくまで瀬尾の推理だ。事実がそうとは限らん」
これまで黙っていた灰島が、彼の得意げな推理に水を差す。
「嫌な奴だな。ここまで調べた俺を褒めろよ」
「よくやった」
「……やっぱいい。なんかムカつくわ」
瀬尾は、わざとらしく、そっぽを向いた。
「それで、どうなさるのですか、灰島くん」
マスターが静かに問いかける。
「三枝先生は、シロか、クロか……、まだ判断はできない」
灰島は、腕を組んだまま答えた。
「だが、あの額縁がこれだけの『曰く付き』である以上、偶然彼の手に渡ったとは考えにくい。監視は続ける。だが、目的は変更だ」
彼の瞳が、鋭い光を宿す。
「彼の罪を暴くのではない。彼が何を隠しているのか。その『真実』を暴き出す」
灰島は、静かに宣言した。




