ファントム、保護者になる11
そのたった二文字の名前を、ユキはただじっと見つめていた。 彼女はゆっくりと顔を上げて、キッチンの隅で黙ってこちらを見ている灰島の顔を見た。 灰島はそのあまりにもまっすぐな視線に、ふいっと顔を背けた。
「……手続き上の、カモフラージュだ。その方が世間的には、一番自然だろう」
灰島の顔が気まずそうに歪んでいたのを、マスターだけが気づいて、「ほっほっほっ」と笑った。
「ファントムがパパか、なかなか笑えるな」
そんな瀬尾の台詞に、じろりと睨むが彼は気に留めることなくにやけたまま。
「ユキがお嫁に行くとき、泣いちゃうんじゃね?」
「お前は、今すぐ俺に泣かされるだろうな」
灰島の指先が、カウンターに置かれたカラトリーに伸びる。
「えー、俺がお嫁に行けなくなっちゃ──」
トン。
頬杖をついていたのに、咄嗟に避けることができたのは、日頃の鍛錬のたまものだろう。テーブルの上にはナイフが刺さっていた。
「ちょっ、お前っ! 本気で俺の頭狙っただろ!?」
「避けるな、クラブ」
「死んだらどうすんの!!」
「心配するな、死体処理は問題ない。その時はヘルハウンド、お前も手伝え」
「いいだろう。やってみたい方法があるんだ」
「良くない──わっ!!」
言い終わる前に、瀬尾が咄嗟に掴んだのは、眉間目掛けて飛んできたフォーク。そして、灰島と陣内も同じように飛んできたフォークを掴んだ。
「子どもの前で、そのような話は感心しませんね。ここは至極普通の喫茶店であり、コクチョウの隠れ家ではありませんよ?」
マスターの絶対的な一言。 灰島、瀬尾、陣内の三人は、まるで、悪戯が見つかった子供のように、バツが悪そうに顔を見合わせると、掴んでいたフォークをそっとテーブルの上に置いた。
「……ってか、俺は悪くなくね?」
なんとも程度の低い言い訳だが、マスターの笑っていない視線に、それ以上の言葉を飲み込む。
こんな低レベルな大人の会話に、ユキは少し冷めたカフェオレを口にして、クスリと笑う。すると、玲奈は「ぷっ」と吹き出すように笑い始めた。
「あははっ、みんな大丈夫なの? そんな調子でユキちゃん守れるの? ほんと、しょうがないなぁ! やっぱり私がしっかりしなきゃね!」
そう言われてしまっては、コクチョウの優秀エージェントもかたなしだ。
「さて、こんなおじさんたちはほっといて、これから大忙しだよ!」
「……なにが?」
「来週から、学校だよ! 制服だけじゃ、ダメなんだからね! スクールバッグに、ローファーに、ノートに、ペンケース! 週末、一緒に買いに行こう!」
「……かいもの……」
ユキがぽつりと呟く。 それは、彼女の人生において一度も経験したことのない、その甘い響きを持つ言葉。
「そう! お買い物! 勿論灰島さんのお金でね!」
「……おい」
キッチンの隅から、不満そうな声が聞こえるが、玲奈もユキも気にしない。 これからたくさんのミッションをクリアしていかないといけないのだから。




