ファントム、保護者になる8
ユキが学校へ行くと決めた翌日の朝。
喫茶店「セグレト」のキッチンには、珍しく緊張した空気が漂っていた。 灰島が料理本の卵料理のページを、まるで暗殺計画の設計図でも見るかのように真剣な眼差しで睨みつけていたからだ。 彼の新しい『任務』は、すでに始まっていた。
「おはよう、パパ!」
二階から降りてきたユキが、元気よく挨拶をする。その呼び方に一瞬戸惑いを見せたが、灰島は訂正せず、 「……ああ」と短く返事をした。
「……パパ、でいいの?」
「保護者というのがどの立場なのか分からんが、連れ子でも何でも、父親という立場が一番世間を納得させやすい。苗字は違うが、離婚した妻が再婚したでもいいし、里子として引き取ったという設定だったとしても──」
「ストップ。パパでいいってことね。それで何を作るの?」
長い説明を一刀両断すると、ユキはカウンターを覗き込む。灰島は、ユキの質問に料理本から顔を上げた。
「……栄養バランス、調理時間、そして味の再現性。その全てを考慮した結果、これに決めた」
まるで作戦計画を説明するかのような堅苦しい口調。 彼が料理本で指さしたのは、『オムレツ』だった。
これを簡単だと考える人も多いだろうが、彼の作り方は、全く普通ではなかった。 まず、冷蔵庫から取り出した三つの卵を、正確に同じ高さからボウルの縁に当て、完璧に割り入れる。
彼の卵を溶く動きには、一切の力みがない。手首のスナップだけで、ボウルの中の卵は、まるで生き物のように滑らかな黄金色の液体へと変わっていく。
冷蔵庫から取り出したのは、刻んだほうれん草とトマト、そして昨日の残りの蒸し鶏。タンパク質とビタミン、鉄分まで計算されたその組み合わせは、彼の栄養に対するこだわりだった。フライパンにオリーブオイルを垂らし、弱火で温めると、香ばしい香りがゆっくりと広がっていく。
卵液に豆乳を少し加え、ふわりとした口当たりを仕込む。塩は控えめに、代わりにパルメザンチーズをほんの少し。具材を炒めたあと、卵を流し込むと、フライパンの中で色彩が踊り出す。緑、赤、黄金色 、まるで朝の光を閉じ込めたような一皿。
火を止め、余熱で仕上げるその瞬間、彼は完璧に仕上がったことを確信し、わずかに口の端を上げた。皿に移したオムレツは、ふっくらと膨らみ、断面からは彩り豊かな具材が顔を覗かせる。添えたのは、レモンを絞ったサラダと、全粒粉のトースト。勿論、焼き加減は完璧だ。
コトリと、ユキの前に置かれる黄金色のオムレツ。
「まずは朝食だ」
ユキのフォークの先が、ふわりとしたオムレツの表面に触れる。軽く押すだけで、黄金色の膜がやさしく割れ、中から湯気とともに彩り豊かな具材が顔を覗かせる。ほうれん草の緑、トマトの赤、蒸し鶏の白が、まるで朝の光を閉じ込めた宝石のように輝いていた。
ひと口すくって口に運ぶと、まず卵のやわらかな甘みが広がる。豆乳のまろやかさとチーズのコクが重なり、鶏肉の旨みとトマトの酸味が心地よく混ざり合う。
「……おいしい……」
その素直な感想に、灰島は満足するどころか、わずかに眉をひそめた。
「……いや、火加減がいまいちだ。わずかに焦げてしまった。明日には修正する」
あまりにもプロフェッショナルすぎる彼の反省の弁に、彼は一体どこを目指しているんだろう? と思いつつも、この美味しいオムレツが毎日食べられるなら黙っておこうと、黙々とフォークを動かした。




