◆59◆
「あ、電気点けますね」
鈴佳がそう言って照明のスイッチを押すと、二十三畳のリビング兼応接間全体が一瞬で明るくなった。
入ってきた俺たちに背を向け、薪ストーブの前のスツールに座っていた男が振り向き、目をパチパチさせている。うん、暗闇の中でほの暗いストーブの火を眺めていたのに、突然全部の照明を点けられちゃ眩しいよね。
鈴佳にデリカシーを期待する方が間違っている。 にしてもだ!
明るい光を放つ三箇所の大型シーリングライト、壁の上部の隙間から天井を照らしている間接照明、掛けられた絵の上に一列に並んだレールライト、要所に配置されたダウンライト、そしてリビング側のソファに添えられたフロアスタンド。これだけの照明器具を、全部一遍に点灯しやがった。
使用目的に合わせて、広い部屋の雰囲気を演出する照明のスイッチ・パネルも、鈴佳にとっては『全部押し』一択しかない。無駄にボタンが多い、とか思ってんだろ。
『はじめまして、ドクター亀甲。会ってくれたことに感謝する。んー、英語は通じるかね?』
ランドグレンがそう言いながら、どん亀、いや亀甲博士の方へ歩み寄った。
通じるよ、英語。
それどころか、現在地球上で使われている(?)五千二百三十一種の言語のどれでも対応可能だ。
『論文発表を理解できる程度には、聞き取れる』
喉に絡んだような低い声だ。立ち上がった姿は、猫背で肥満気味に見える。
『それは幸いだ。もうご存じと思うが、私はルドルフ・ランドグレン、ファーストネームはハンスだ。よかったら、そう呼んでくれ』
研究者レベルなら当然とは思っていたようだが、言葉が通じることを確認できてホッとした顔のランドグレンが右手を差し出す。向かい合う太い黒縁眼鏡のレンズ越しに見えるのは、ドロンとした視線。それが一瞬だけ上目遣いになった。
『すまないが握手は遠慮させてほしい』
『ああ、失礼。右手が不自由だとか?』
『動かせるが、感覚が麻痺してる。だから握手はしないことにしている』
『分かった。すまなかったな』
博士は左頬を引きつらせた。あれは笑ったんだよな。クッソ、どん亀のやつ、凄い(!)演技だ。俺の方が笑いたいよ。
それまでかぶったままだった迷彩柄のバケット・ハットを脱いだ。大きな玉子みたいな頭部、禿げ上がった額の三分の一ほどに火傷の跡と思われる変色がある。右目の上から頬に向けて傷跡が走り、表情が不自然なのはそのせいに違いない……と判断してくれると都合が良い。
『ああ、気にするな。わしのことはドンと呼んでくれ』
『ドン?』
『アヒルじゃない。呑舟の呑だ』
そう言えば米国では、ドンと言ったら某アニメに登場するアヒルの名の短縮形だったな。あれ、ランドグレンが微妙な表情をしてる。どん亀がパペット・ボットに亀甲呑舟と名乗らせていることは、話したと思うが?
『ランドグレン?』
『いや、何でもない。それじゃあドン、話し合いを始めよう』
『いいともハンス』
少し青味がかった明るいグレーの地に黒青のチェック柄が入ったセットアップ、中に濃紫のタートルを着込んで、色気のあるオヤジ風の格好をしているのがランドグレン。胸にはブラウンのポケット・チーフまで覗かせている。
それに対して我らのどん亀、もとい亀甲博士は、茶系チェック柄の長袖ネルシャツ、インディゴ染めのデニム・ジーンズは大きめサイズで、その上に緑のマウンテン・パーカーを羽織っていた。まあ、アウトドアなスタイルで統一されていると言えば、そうだな。
『こちらは山城さん。私の秘書だ』
『山城智音です』
どん亀がどんなやり方で智音をコントロールしているのか、実は俺は知らない。それを言えば鈴佳についてもだ。二人に施された人格改造は、あくまでどん亀の目的に従って計画・実行されていた。
だから智音が、亀甲に対し全く初対面であるかのように振る舞っても、俺は疑問を抱かなかった。考えても無駄なことは考えない、これが俺の方針だ。
『それでドクター、君のラボはどういう体制になっていて、どの位の規模なのかね? それを知らないと、今後の方針が立てられないから、教えて欲しい。できれば早急に実態を把握させてくれ』
『ああ、わしのラボを見たいと言うんだな?』
『投資の計画を立てるには、当然のことだと思うが』
『それは君が一人で判断する権限を持っていないということだ』
『財務については、私は全権を持っているわけではないんだ。君たちが望んでいるのは、少額の研究費の補助というレベルの金額ではないんだろう』
『もう少しお互いの信頼関係が確立された後でなければ、そこまでの情報を渡すわけにはいかない』
『信頼? ……それは契約と言うことか?』
『いやいやいや、今現在も、このやり取りを電波に乗せて、誰かの所へ送っているだろう。多分あのキャンピングカーが中継して、衛星回線に乗せ、本国に届けているんじゃないのか?』
やっぱり家の中での会話を盗聴されていたか。ランドグレンの表情は動かなかったが、即座に否定しないところをみれば当たりだ。盗聴器は彼が今身に付けている物だけでなく、家のあちこちにも置かれていると見るべきだな。
無理押ししなくて正解だった。あの用心棒たちを制圧するのは簡単だが、米国のどこかにいる誰かまでは、ここから今直ぐには手が届かない。
『気分を害したのなら謝る。単に我が社のセキュリティ・ルールに過ぎないんだ。特に他国では、何が起こるか分からないからな』
ランドグレンが肩をすくめ、ポケットから直径三センチほどのコインを取り出した。
『スイッチは荷物の中にあるケースに入れなきゃ切れないんだ。何なら、今直ぐ取ってくるが?』
『数分おきに記録をパケットにして発信しているだろう。逆探知するのに時間がかかった。まあ、お互いの信頼関係は、今のところこの程度ということだ』
『で、ドクター、どうすればいい?』
ランドグレンの視線には、動揺は感じられなかった。このぐらいは計算済ということか。
今回ネットで調べたら、「握手の習慣は、武器を持つはずの右手を相手に差し出し、平和の意図を伝えるため」なので「握手の時、左手を出すのは、礼を失する行為」という説明がありました。今回はこれに合わせました。「諸説ある」とか言って、責めないで下さい。 野乃