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◆60◆



 今現在、我々とランドグレンの話していることは、キャンピングカーの衛星アンテナを経由し、トライデントの本社かどこかに送られているらしい。それも音声記録を短いパケットに圧縮し、第三者には直ぐに解析できない間隔で、パルス送信している。


 冗長性は保持されているのだろうが、常に送信しているわけではないから、その電波をキャッチすること自体が先ず難しい。更に圧縮と解凍の方法自体が一定のパターンに従って変更されるため、その条件を知らない人間が傍受してもバックグラウンド・ノイズにしか聞こえない。


 どん亀の説明によると、そういうレベルのセキュリティ通信だそうだ。さすがトライデントと言うべきか、こういうシステムの構築だけでも相当な費用がかかっているはずだ。



 どん亀のターン。いや、亀甲博士か。


『で、提案だ。まだ出資はしなくて良い。岡田が話したと思うが、こちらは試験出荷を考えている。それを指定する単価で引き取ってくれ。一定期間内にこちらが提供できる製品の種類と上限量は、毎回予め提示するから、その範囲内で購入量を決めてくれていい。ただし、そちらが全量買い取らない場合、残った製品は他の相手に売却する可能性がある。その場合の単価は、その相手との交渉次第だ。後からの異議は認めない』


 ランドグレンは眉をしかめた。こちらの提示する全量を買い取らない場合、残りをトライデントに対する売却価格より安く他の企業体に売ると脅しているようなものだからだ。


 全生産量をこちらの付け値で買い取らなければ、自社で利用するにしろ転売するにしろ、トライデントには損失が出かねない。おまけに供給量をコントロールできるのはこちらだけ、という条件だ。


『こちら側(トライデント)に、一方的に不利な内容に思えるが……』


『何故だ? 優先購入権を保証すると言っているんだ。十分以上に、そちら側に有利だろう。価格が高すぎると判断した場合、買い入れることを拒否すれば良いだけのことだ。それとも君たちは、この製品やそれを使った高機能の二次製品の最低流通価格を予測するだけのマーケティング能力が無いと言うのかね?』


 マーケティング能力の無い世界的大企業かと言われては、返す言葉が無かろう。ランドグレンは何と応えるか


『そちらが提供できる製品のアウトラインは受け取った。しかし全て市場には流通していない物ばかりだ。つまりどんな利用法がこれから出てくるかもまだ不明ということになる。その段階での値付けなど不可能に近い』


『どうしてできない? こちらが供給する全量を買取りさえすれば、トライデントが市場への供給を支配できるのだぞ。供給過多になりそうだと判断した場合は、一時的にストックしておけばいい。そう短期間で自然損耗する物ではない。それとも購入資金が無いとでも言うつもりか?』


 まあ欧州系の企業との合併で、昨年は世界の化学企業中第二位に売り上げを伸ばしているトライデント社に、購入資金が無いとは言えないよな。


 近年は化学産業でも中国系やインド系企業の躍進が大きく、売上高でも世界第三位と第四位を占めていて、第五位は産油国の会社だ。


 ただこれらは汎用化学品とか基礎化学品などと呼ばれる付加価値の少ない製品を低価格で提供することで、上位ランクに食い込んできているのが現状だ。これらの企業にとって、どん亀が提供する製品はより技術レベルの高い機能化学品の分野へ進出する足がかりとなり得る。


『日本企業トップの三稜ケミカル・ホールディングスでも化学製品販売の世界ランクではせいぜい十一位、ベスト・テンにも入れない。だから取引相手を他国に求めるのは分かる。しかし、どうしてSASFにこの話を持ち掛けなかった?』


 あ、そっちか! SASFはドイツのニーダーザクセン州オスナブリュックに本社を置く、売上高世界一位の化学製造企業だ。十九世紀半ばの起業で、現在の会社名は創業時の社名の頭文字を取っている。連結総資産六兆二千億ユーロ、従業員十一万人という巨大企業だった。


 つまりこの質問は、どうして第一位ではなくて第二位のトライデントなのだ、という疑問である。


『第一位というのは、どうしても保守的になりがちだ。特にあの国の奴らは、頭が固い。交渉が長引く可能性を考えて、先にトライデントに声を掛けたのさ』


 SASFという企業はあの国の国民性を、今でも色濃く保持していた。例えば創業当初の名称から取ったSASFという社名を、頑固に守り続けている。「ザクセンで、アニリンと、ソーダを製造する、工場」だからSASFって、総資産六兆二千億ユーロの世界企業になってそれは何だよ! ……と、ここまで来るとダサいを通り越してカッコいいと、逆に思えてしまう。


『なるほど、つまり当社との話がまとまりそうになかったら、あちらと契約することも考えているのか』


『どことは言わないが、相手はトライデントと限らないのは確かだ。例えばさっき話に出た三稜ケミカルだって、可能性が無いわけでもない』


『いや、待て。先ほどの条件が全く検討できないというわけではないぞ。ただ出荷量が不明のまま、際限なく購入する契約には無理がある』


『では、金額的な上限と最初の契約期間を設けよう。金額は五十億ドルまで、期間は初出荷から一年間だ。ただしこれはそちらの要望に合わせた条件で、こちらの譲歩案だ。従って一年後に再契約するとしても、同じようにトライデントに有利な条件になるとは限らないから、そのつもりでいてくれ』


『それだとある製品の我が社に対する出荷単価を一グラムあたり五十億ドルと値付け、上限量を一トンとすることも可能だ。我が社の連結総資産額の百倍以上だな。無理だろう』


『先ほども言ったが、その場合はそちら(トライデント)が購入を諦めたらいいだけだ。それに、そんなことをしても、こちらには何の利益も無い。君は、こちらの生産量や単価に制限を掛けるような支配力を、どんな理由でそちらに与えなければならないと主張するんだ?』


 前置き無しで条件のぶつけ合いになり、話が行き詰まる結果となった。俺は鈴佳に合図して、珈琲と焼き菓子を出すよう指示する。いや、アルコールは無しだよ。どん亀の奴、マジでガチ勝負に出た。これじゃあ、まとまる物もまとまらない……あれ、何で俺、話をまとめるつもりになってるんだ。


 今回は話を流し、一時保留《サスペンデッド》にする予定だろう。ここで一度ストップを掛けなけりゃ。


『ハンスも博士も、一息入れよう。今、珈琲を入れるようたのんだ。冷静になってみれば、お互い合意できる方法が見つかるかも知れない』


 ランドグレンが考え込んだ顔になり、それから俺を見て言う。


『そうだな、こちらも本国と話し合いを持ちたい。すまないが英次、もう何日かここに滞在しても構わないだろうか?』


『ああ、勿論だな。何日でも家に泊まってくれ。だが、あまり贅沢は言わないでくれよ』


『では、お言葉に甘えるよ。珈琲を飲んだら場を外していいか?』


『わしは構わん。明日の晩にでも、もう一度会おう』


 ランドグレンは珈琲を飲み干すと、何も言わずに姿を消した。北米の東部とは、確か十二時間の時差があるから、むこうは昼間だ。今の内に衛星経由で直接連絡を取ろうというんだろう。


 それにしても、今回どん亀は気弱なキャラで行くんじゃなかったのか?


 何か、えらい予想と違うんだけど!


 まあ、違和感を感じる暇も無かったようで、結果オーライなのかも知れない。


 亀甲博士が立ち上がり、ソファーの側に立て掛けられていた猟銃のケースを肩にかつぐ。応接室を出て、玄関にあったアメリカ製のマウンテン・ブーツを履き、外へ出て夜の闇の中に姿を消した。


 ん、何だろう、この「置き去りにされた」感は?


 企業名などは全て架空ものです。一応念のため。

SASF(Sachnsche Anilin und.Soda Fabrik ザクセン・アニリン・ソーダ工場)

創業時の社名は「Sachnsche Anilin - u. Soda -Fabrik」かな?

  こういう名称を一廻り廻ってカッコいいと受け取るかどうかは、全く趣味の範疇に属すると思います。          野乃


◆修正部分のお知らせ◆

 六角と六稜がまぎらわしいので六稜を三稜に直しました。


六稜ケミカル・ホールディングス→三稜ケミカル・ホールディングス

六稜ケミカル→三稜ケミカル


2021.10.01.    野乃

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[良い点] 舌戦が面白いです
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