第三十八話
この頃は悪夢も怖くない。いつも手を繋いでいるから。一人あの大きな長いトンネルの前に佇んでいることがある。小さい頃からよく見ていたから、これは夢だとわかる。隣に緒方はいない。そのよく見知った夢のなかを神埼は歩いた。幼い頃はこのトンネルが大きくて暗くて、怖かった。何度も見ているうちに慣れてきて、今度は誰もいないことが怖くなった。誰かを求めて、探して。このトンネルから反対の方向に走り続けたこともある。走って走って走って。力尽きて倒れて。体の疲れの方が心の痛みよりも楽で。心の痛みから逃げられるならば、何でもよかった。ここには誰もいないとわかったとき、神埼はやっとこのトンネルを走り続けることを決意できた。長くて大きな暗いトンネル。ここを切り抜ける。寂しさや苦しさを押し込めて走ることだけに集中した。体が傷ついても、目が霞んで見えなくなっても。構わず走り続けた。走っていれば、忘れられる気がした。そんなトンネルを今はのんびりと見つめる。懐かしくて、どこか誇らしくて。ゆっくりと歩いてみる。ここは相変わらず暗い。そして、トンネルは改めてみると大きくて暗くて。まるで巨大ナマズの口のようだ。コンクリートだと思っていたが、トンネルそのものが生き物のように感じる。トンネルも生きているのかもしれない。そっとトンネルの縁に近づいてみる。触ってみると案外柔らかい。神埼は顔を寄せてみた。温かいのか冷たいのか、温度というものが感じられない。耳を寄せてみる。何も聞こえない。無。そういえば虚無のようなものを感じていたことを思い出す。一人のとき、虚無感はとても怖くて見たくないものだったけど。誰かと手を繋いでいる今は、とてもこの虚無感が愛しい。長かった。苦しかった。あの時はトンネルを憎むことしかなかったけど。今ならよくわかる。このトンネルがあったから、今こうして立っていられること。誰かと手を繋いで、これからも歩んでいけることがどんなに素晴らしいことで、かけがえのないことであること。一人ぼっちがこんなに辛いこと。心を開けないことがこんなに苦しいこと。またいつでもここに来ていいよな。トンネルに話しかけてみる。相変わらず温かいのか冷たいのかわからなくて、反応もないけれど。愛しい。ありがとう。一人ぼっちの自分のそばにいてくれた。お前がいたから、俺がいるんだよ。神埼はゆっくりと目を閉じた。いい匂いがする。これはバタートーストだ。あれ?香ばしいベーコンも漂ってきた。昨日の朝、二人で食べ終えたはずなのに。そこにまた新しい匂いがやってくる。コーヒーだ!間違いない!神埼は目を見開き、体を起こした。「。。!?。す、素早い反応。。!!朝から素晴らしいですね!!」そこには緒方がいて、片手にコーヒーを持っている。急に目覚めた神埼を感心したように見ながら、パンを食べていた。「。。緒方。。パン、美味しそう。。よこせ~!」眠気と美味しそうな匂いと、眩しい温かな光。緒方、ただいま。今日も一日が始まるな。緒方からパンとコーヒーを受け取る。緒方はそんな神埼を優しく楽しそうに見ていた。コーヒーをゆっくり飲んでいる。「パンにはコーヒーが合いますねぇ。。寒い朝には温かい飲み物がかかせません。」このコーヒーの苦味とバタートーストの甘味がまた。。緒方はうっとりとしながら苦手な寒さをいかに楽しむかを語っている。「ほら。この寒さがあるから、このコーヒーの温かさが引き立つ。。。神埼くん、聞いてますか?」さらに身振り手振りを加えて、緒方の講義は続く。バタートースト美味しいな。。ベーコンもパリパリしてる。。うんうんと聞いているふりをしながら、神埼は朝食をほおばった。「緒方!コーヒー、おかわり!」コーヒーカップを緒方へと突きだし神埼は笑った。ただいま。緒方。これからも、よろしくな。




