第二十六話
母から頼まれた荷物を両手に持ち、目的地へと急ぐ。手渡された袋には野菜やら醤油やらいろいろ入っている。そろそろなくなる頃だからと、休みで家にいた自分に母は頼んだ。神埼の家は弟が飛び出していってわからない。昨日、母と弟は電話で話し合い、やっと住所がわかった。歩いて30分ほどの距離だ。元気は二階建てのアパートを眺めた。弟が家を飛び出してから、3日ほど経つ。そろそろ体力の限界だろう。食糧もそうだが、母は弟の体調のことも考えたのかもしれない。自分はこの荷物と看病の応援といったところか。元気はポケットから携帯を出すと緒方に電話をかけた。「元気兄さん!?どうして!?」ひどく驚いているようだ。まさか自分が来るとは思っていなかったのだろう。思ったよりも声が元気そうで安心した。「今、アパートの近くにいるんです。部屋がわからないので迎えに来てくれませんか?」はい!という大きな声が聞こえて、電話は切れた。元気兄さん!嬉しそうに自分に駆け寄る弟が愛しい。顔色も良くてほっとする。どんなに携帯で声を聞いても、やはり会って顔を見ないと落ち着かない。こんにちは。元気でしたか?そう話しかけると緒方は笑った。部屋に上がらせてもらう。寝ている神埼を見ると穏やかに寝ている。良かった。緒方も心配だが神埼も元気にとっては心配だった。彼は何か怯えていて、遠慮していたように見えたから。元気は医学部の研修で、神埼と似た雰囲気を持つ患者を見たことがある。そして、通っている剣道の道場でもそんな風な後輩はいた。彼と同じように、どこか怯えていて、何かを恐れているような。どちらにしろ、放っておけない。その神埼がゆっくりと眠っているのだ。よほど安心しているのだろう。元気はほっとした。「疲れていませんか?神埼くんは私が看ますから、愛は少し休んでください。」大量の食糧を受け取って、台所にどう収納しようか格闘している緒方に声をかけた。緒方は、うーんと唸っている。病人の看病は何度もしている。緒方もそれは知っている。家族のなかで自分が一番気を使わせず病人の看病は上手いらしい。自分ではよくわからないが、他の家族全員の同意をもらい元気は見送られた。「気持ちはとても嬉しいのですが、。。神埼くんの看病は私がやります。だから、元気兄さんはゆっくりしていてください。」収納が終わったのだろうか。緒方が台所から戻ってきた。そして、嬉しそうに、しかし、はっきりと言った。元気は驚いた。緒方はもう少し線が細くて素直だったはずだ。末っ子だから家族にからかわれ、なんだかんだと構われている。いつも家族からこうしなさいと言われれば、返事をしてその通りにする。自分の考えは言うものの、いつも言われた通りにやる。だから、こうして断るのはとても珍しい。いや、初めてかもしれない。元気は自分の弟をまじまじと見た。そういえば、兄が言っていた。緒方は変わったと。大人になってしまいました。嬉しそうに、愛しそうに笑っていた。大人に。。。?兄が言うのだからそうなのだろう。自分にはよくわからない。でも緒方が頼もしく見える。自分にそう返事をすると緒方は神埼の様子を見る。苦しくはないか、辛くはないか。労るように見つめている。そんな姿を見て、元気は自分が兄と弟と祖父の家に預けられていた時のことを思い出した。あの頃はなんだか息苦しくて、背筋が冷たくて。あまり笑ってはいけないような、そんな乾いた雰囲気だった。酸素が足りないような、ないと生きていけない何か、目に見えない大切なもの。それが少なくて、場合によっては感じられなくて。怖かった。ふとそばにいる弟のことを見ると、顔が真っ青で下を向いている。何かに耐えているような、気を張っているような。辛そうで、苦しそうで、どこか泣き出しそうな。そんな弟を見たときに、弟は自分が守るんだと強く誓った。あの頃兄が、ここにいるのは辛いでしょう。愛は私がそばにいますので少し外に遊びに行ってきてください。そう言ってくれたことがある。でも、その時自分はそれを断った。愛は私が守るから、兄さんこそゆっくり外へ遊びに行ってきてください。きっぱり言った気がする。そんな自分に兄は驚いたように目を見開いて次の瞬間、花のように笑った。血の通った嬉しそうな笑顔だった。ありがとう。では愛を頼みます。頼りにしていますよ。そう兄から言われたとき、自分はとても誇らしくて、嬉しくて。心の奥底から何か温かなものがふつふつとわき上がって心地よかった気がする。きっと今の緒方もあの時の自分と同じなのだろう。元気は嬉しくて、どこか可笑しくて大きく笑った。弟に言おう。自分も兄から言われた言葉。あの時の兄もこんな気持ちだったのだろうか。聞いてみたい。「わかりました。頼みます。神埼くんを守ってくださいね。頼りにしていますよ。」自分の言葉に驚いた顔をして、次の瞬間、緒方は屈託なく笑った。ああ、自分はあの兄の、そして、この弟の、真ん中の兄弟なのだなと思った。兄に言われたことがある。元気、あなたはあなたらしくのびのびとしていてください。そして、私が間違っていると思ったら、容赦なくその本音をぶつけてください。私は、あの緒方の家に入る。どんなに染まりたくないと思っても、入ってしまえば染まります。だから。あなたにはいつでも私に言いたいことははっきりと言ってほしいのです。あなたは私にはない優しさと包容力がある。中庸で冷静で物事を真っ直ぐ見ることができる。だから、あなたはあなたらしく、行きたい道を行きなさい。兄が緒方の本家を継ぐと決まったとき、自分も家に入り手伝いたいと申し出たらはっきりと言われた。したくないことをすることはない。自由にのびのびと自分の道を行け。兄が言うのだ。緒方の家のことも自分のこともよくわからない。わからないが自分は兄に従う。神埼のアパートを見上げた。やっぱり愛は大人になってしまいました。兄にはそう報告しよう。元気は優しく微笑んだ。




