第ニ話
カウンセリングも終わり、陽が静かに傾き始めていた。今日もまたいつもの夜がやってくる。深い呼吸をして、椅子にもたれかかる。今日はいつもより疲れてしまった。不眠症。神埼もよく夜眠れなくなることがある。昔の自分が蘇ってくるような気がして、安心できない。それは恋人である緒方と一緒にいても、さほど変わらない。眠れないときは、のんびりと夜を楽しむようにしている。神埼はどちらかというと夜が好きだった。生命が静かに寝静まる闇、そのなかでひっそりと息をしている自分。そんなとき、やっと自分が自分でいられるような気がする。許されている気がする。知り合いの精神科医からしたら、自分は自分を許していないらしい。「夜か。。今日は雪が降りそうだ。」昼間はあんなに晴れていたのに。あんなに明るかったのに。そういえば、20代の頃、緒方と付き合って、別れ話をしたときがあった。あの時の苦しさと少し似ている。あれは、大学を卒業して3年目、社会に出て一人でも生きていける、生きていかなければならないと思った冬。寒い、暗い冬だった。あの頃は、自分も緒方も若かったけど、あの時の自分とあまり変わっていないのかもしれない。あれは、雪の日。冷たくて、暗くて。マフラーが異様に温かかった日。「なぁ。。。緒方。。。」とても苦しい。とても悲しい。自分がこれほどまでにこの緒方という男のことを頼っていた。そばにいることが当たり前のようで、何か、大切なものをずっと知らぬうちに受け取っていたことを、嫌というほど神埼は知った。「俺と、別れてくれ。」別れ。町のなかでその言葉を目にするたび、職場でその言葉を聞くたび、神埼のなかで、決断を突きつけられているような、催促されているような、己自身が己へと、もう終われ、と言っているような。そんな悲しい思いがわき上がってくる。緒方をこのまま自分が束縛してはならない。自分はもう一人で生きていける。緒方とのことは一時の夢だった。夢は覚めるものだ。温かい、優しい夢だったじゃないか。思った以上に、様々な感情が神埼のなかで渦巻いている。その波の大きさに顔が歪んでいく。しかし、これもこれからは一人で背負わなければならない。そんな思いをすべて心で受け止めながら、神埼は次の言葉を伝えようと緒方へと顔を向けた。しかし、神埼の前の緒方は、にこにことにこやかに笑っている。。。。。なんだろう。この穏やかなほのぼのオーラは。。。しばし、呆けたようにぼんやりと目の前の男を見やる。「神埼くん。。。なんて素敵な表情なんでしょう。。。とっても愛らしいです」そう言うと、緒方は、自分の思考能力を遥かに越えた出来事が起こって、放心している神埼の頬に優しく、そっと撫でた。「神埼くん、私はあなたが好きだ。あなたが愛しいと心から思っています。私だって、あなたを好きだと心が叫んで、とても戸惑いました。」少し昔話をしましょうか。。緒方は愛おしくてたまらないというように、神埼の頬を両手で優しく包み込んだ。「男性に恋をしてしまったのです。その時の私の絶望がわかりますか?まず、頭に家族が浮かびました。家族を悲しませる、失望させる、はたまた育ててくれた恩を裏切ることになると。その時の家族の姿を想像して、胸が張り裂けそうになりました。そして、次にこれからの困難を思い描きました。社会に出てある程度年齢を重ねると、恋人はどうだこうだ、その話を聞くたびに私の心は怯え、堂々と好きな人を紹介できないのだ、罪悪感と後ろめたさを抱えながら、誤魔化しながら、その場をしのぎ続けるのだと。」神埼を見るのを止め、遠いところを懐かしむように見ている。「でもね、神埼くん。あなたはそれをすべて払拭してくれた。こんなにも温かいものを私に与えてくださったんです。あなたと過ごす時間、あなたと交わす言葉、あなたとこうして触れあう穏やかなかけがえのない温もり。それらはすべて私のこの心を溶かしていったのです。私は、あなたと出会って、過ごして、大切なものが何かを知ったんです。あなたに教えてもらったのですよ。」緒方は、神埼から手を離すと今度は優しく神埼を抱き締めた。「私の感じた絶望なんて、本当は絶望なんかじゃないんです。ただの自己防衛、自分勝手なエゴなんです。自分の都合を押し付けて、勝手に悲しんでいる。本当の絶望は、大切なものを自分の都合で諦めること、自分の心に嘘をついて、愛しいものを手放すことなんです。」自分の胸から神埼を少し離すと、緒方は神埼の顔を覗きこんだ。「いいですか?私にとって一番大切なもの。私の心が、魂が欲しくてたまらないもの。私にとっての光はあなたなんです。神埼くん。あなたといると、こんなにも心が震える。こんなにも温かくなれる。出会えてよかった。」神埼は、自分を抱き締める緒方の腕の強さに不覚にも呆然としていた理性を押し戻した。なんなんだろう。この男は。同性であるばかりか、自分の心を掻き乱し、こいつのためを思って離れてやろうとしたら、これだ。こんなにも、温かい。こんなにも、優しい。もうだめだと思った。諦めよう。こいつは自分がどんなに言っても、なんと言っても離れない。受け取らないと駄々をこねても、結局はあふれる愛を惜しみなく注ぐ。そう、こいつは愛そのものなのだ。愚かな愛なのだ。愚か者に何を言っても無駄だ。どこか、今度は脱力感が神埼を襲う。もう決着がついた。自分はこの男に負けた。「なぁ。緒方。。」「なんですか?」「ケーキ。。食べたい。」「そうですか。では、駅で美味しいケーキを買って帰りましょう。」「ショートケーキ。ホールでな。」「ホールでですか?しかし、それでは二人では食べきれませんよ。」「お祝いだから。お前にいっぱい食わせたる」生クリームは、苦手なんです。。。苦虫を潰したような顔の緒方に、神埼は、今日初めて勝った!と顔をほころばせた。「神埼くん。帰りましょう。」いつの間にか、そばに緒方がいる。自分はそのまま少し眠っていたようだ。冷たくなった神埼の手をそっと握る。冷たいです。。。と顔を歪ませ今度は両手で包み込んだ。今日は寒いですねぇ。。のんびりと呟く緒方を見ていると、寒いのも悪くないなと。そう思っている自分に神埼は苦笑する。知らぬ間に自分もあの頃とは、変わってしまったようだ。