第5章|支離滅裂の自己弁護
昨夜、恭介から届いたLINEを、私は朝の通勤電車で読み返した。
『澪、決めたよ。君との将来のために、妻と離婚することにした』
その後に、もう一通。
『これでやっと、澪と真っ直ぐに向き合える』
相変わらずの、自信に満ち溢れた口調。
状況をすべて自分のコントロール下に置いていると錯覚している、その全能感が透けて見えて、私は思わず失笑した。
このメッセージを、私はすぐに志保さんに転送する。
『魚が、餌に食いつきました』
返信は速かった。
『計画通りですね』
志保さんの快活な文字が躍る。
彼は自分が「誠実な男としてけじめをつけている」と思っているのだろう。
やれやれ、と私は窓の外に目を向けた。
恭介は焦っていた。
場所は、志保が手配した弁護士事務所。
正面に座る藤堂弁護士は、能面のような表情で彼を眺めていた。
「……いい加減にしてくれ! なぜ志保がここにいないんだ? 本人がいない話し合いに、何の意味がある!」
恭介がテーブルを叩き、声を荒らげる。
彼にとって、志保は「言い負かせる相手」だったはずだ。
感情的に揺さぶり、適当な言い訳で丸め込む。それが彼の得意パターンだった。
だが、藤堂弁護士は表情一つ変えず、淡々と告げた。
「私は正当な代理人であり、全権を委任されております。感情的な議論に時間を割くつもりはありません。こちらは客観的な証拠に基づいた請求を行っているだけです」
恭介は顔を赤くし、必死に言葉を絞り出した。
「証拠だって? そんなものは大げさだ! それに、志保だって至らないところがあった。家事の怠慢とか、性格の不一致とか……そういう点について、慰謝料の減額を検討すべきだろう!」
論理の飛躍がひどい。
不倫という決定的な裏切りを、相手の「至らなさ」という主観的な不満で相殺しようとする。
典型的な、都合のいい自己弁護だった。
しかし、藤堂弁護士は一切乗らなかった。
ただ静かに、写真とLINEのスクリーンショットが並んだ資料を、恭介の目の前に突きつける。
「次にお話しするのは、この不適切な関係がいつ、どこで、何度行われたかという点についてのみです」
自分の言い分が、一ミリも通用しない。
その事実に気づいたとき、恭介の顔から余裕が消えた。
「……誰が悪者なんだよ。俺だって苦しいんだぞ!」
絞り出すような叫びだった。
「苦しい、というのは、どなたに向けた主張でしょうか」
藤堂弁護士は、眉ひとつ動かさずに資料のページをめくった。
「こちらは請求のお話をしています。続けてよろしいですか」
恭介は、返す言葉を失った。
内心では、激しい焦燥感に駆られていた。
(くそっ……! 志保がここまで徹底的に来るなんて。いっそ俺も弁護士を雇って、長期戦で戦ったほうがいいか……?)
だが、そんな泥沼化こそ、恭介は避けたかった。
澪との結婚は遠のくし、普段の生活にも支障が出る。
恭介の日常は、静かに、けれど確実に崩壊し始めていた。
「あ、恭介さん。すみません、ちょっと言わせてもらうんですけど……」
出社した朝、隣の席の同僚が、鼻をひくつかせながら、あからさまに不快そうな顔をした。
「なんか、最近生乾きの匂いしませんか? シャツ、ちゃんと乾いてます?」
恭介は慌てて自分の肩を嗅ぐ。
志保の管理から外れ、一人で生活の基盤を維持できなくなった彼の惨状が、匂いとなって漏れ出していた。
それだけではない。
オフィスを歩けば、女性社員たちが小グループでひそひそと笑い合い、彼が視界に入った瞬間に会話が止まる。
具体的な噂は出ない。だが、「何か」がバレているという空気感があった。
かつての「デキる男」という仮面は剥がれ落ち、今の彼はただの「だらしない男」に成り下がっていた。
精神的に追い詰められた彼にとって、唯一の救いは澪だけだった。
彼は、縋るようにLINEを送った。
『澪、実は志保がひどいんだ。未練があるようで、どうしても別れたがらない。俺が離婚したいと言っているのに、わざと手続きを遅らせて、精神的に追い込もうとしてくる。本当にしんどいよ』
乾いた笑いしか出てこないが、ふと考えてしまう。
もし、すべてを知らないでいたら? 結婚を焦った私は、なんと返事をしていただろう。
少しだけ考え込んでしまったが、無駄な時間だった。
今は、志保さんの指示通りに返信するだけ。
彼が焦って「早く終わらせたい」と思うように仕向けるだけだ。
その志保さんからの指示は、短かった。
『お金の話を出してください。向こうから払いたくなりますから』
あまり気は進まないまま、私は、あえて彼を急かす返信を打った。
『そんなことがあったなんて……。恭介さん、大丈夫? 志保さんがそんなに執拗なら、早めに解決しないと大変なことになるよ』
少し間を置いて、もう一通を送る。
『お金の問題なら、私に相談して。少しなら、力になれるかもしれないから』
やれやれ。どうして私は、他人の復讐劇の小道具を、自分のスマホで演じているのだろう。
だが、この一言が、恭介の損得勘定に火をつけた。
彼は、澪を「自分を救ってくれる聖女」だと信じ込んだ。
泥沼化して長期間揉めるより、今、多めに払って口止めの合意書を完璧に結ぶ。
そのほうが、結果的に安上がりで安全だ。
そう判断した彼は、ついに決断した。
再び弁護士事務所。
恭介は、自分の資産を大幅に切り崩してまで、高い慰謝料を支払うことに合意した。
(まあいい。今は損をしても、後で澪の資産も当てにできる。彼女なら、俺の状況を理解してサポートしてくれるはずだ)
身勝手な計算をしながら、彼は誇らしげに書類にサインをした。
その表情は、まるで困難を乗り越えて愛を勝ち取った英雄のような、歪んだ恍惚感に満ちていた。
(高い金を払って泥沼を断ち切り、澪を幸せにする。俺は本当に、誠実な男だ)
後から藤堂先生に聞いた話では、恭介はサインの瞬間、自分の署名に見とれていたらしい。
その滑稽さに、私はうんざりした。
愛ではなく、単なる「所有欲」と「慢心」。
それを誠実さと呼ぶ神経が、理解できない。
その夜、私のスマホに、彼から歓喜に満ちたメッセージが届いた。
『志保と正式に離婚したよ。精算も全部終わった。ようやく自由だ。これからの二人のことを、ゆっくり話し合おう』
けじめをつけた自分に酔いしれ、新しい人生が始まると信じ込んでいる。
その純粋なまでの鈍感さが、最高に笑える。
私は、乾いた笑いを浮かべながら、そのLINEを志保さんに転送した。
『完了です』
返信は早かった。
『最後の仕上げは先生にお願いしてあるので、澪さんの仕事はこれでおしまいです。お疲れさまでした。あとは、あの人から「会おう」と連絡が来たら、場所と時間だけ教えてください』
……最後の仕上げ、とは。
聞かないほうがいい気がして、私は画面を閉じた。




