第4章 会社の面談室に呼ばれた男
「ここ数日で、恭介に動きがありそうです」
デスクでパソコンに向かいながら、私は志保さんにLINEを送った。
昨夜、恭介から『近いうちに、大事な話をするよ』というメッセージが届いたのだ。前に頼まれた通り、さっそく報告する。
すぐに既読がつき、返信が届いた。
『少し予定を変更しようと思います。宣言だけでは、あの人はまた口先で丸め込みそうなので。藤堂先生に依頼して、恭介の会社と義実家に内容証明を送ってもらうことにしました』
藤堂先生。志保さんの代理人の弁護士だ。
なるほど。殴り合いではなく、安全圏から一方的に攻撃するつもりらしい。
『私は当分、ビジネスホテルに泊まって様子を見ることにします。
あの人から連絡が来たら、教えてくださいね』
私は、ほんの少しだけ、意地の悪い愉悦に浸った。
恭介は今頃、自分が二人の女を巧みに操っていると思い込んでいるだろう。
その万能感が崩れ落ちる瞬間は、確かに見ものだ。
数日後、恭介は会社で、妙な空気の中にいた。
内容証明の封筒が上司の机に置かれた日から、フロアはどこか落ち着かない。
特に、コンプライアンスが重視される今の時代、私生活のトラブルが会社に届くのは、社員にとって最大の屈辱だった。
「……恭介君、ちょっといいか」
上司に呼ばれ、恭介は面談室へ向かった。
歩くたびに、何人かの視線を背中に感じる。
昨日まで当たり前だった挨拶が少しぎこちなくなり、代わりに意味ありげな囁き声が耳に入ってきた。
「どういうことだ。奥さんの代理人の弁護士から、会社に書面が届くとは」
上司の声は低く、怒りよりも「呆れ」に近い。
「……誤解です。現在、別居しておりまして。円満に離婚手続きを進めている最中なんです」
恭介は淀みなく答えた。
彼にとって、この手の言い訳は呼吸をするのと同じくらい簡単だ。
相手が何を求めているか、どう答えればその場をやり過ごせるか。彼はそれを熟知している。
(ったく、あの女。わざわざ会社にまで……。ま、いいさ。これで志保がどれだけ理不尽な女か、上司にも分かっただろう)
内心で舌打ちしながら、恭介は「被害者」の仮面を被った。
しかし、上司の目は笑っていなかった。
「私生活のことだから深くは追及しないが、社外に不快感を与える行為は厳禁だ。昇進のタイミングだ。自分の立場を考えろ」
直接的な処分こそないが、明確な「警告」だった。
恭介の脳裏に、一瞬だけ焦りが走る。だが、彼はすぐにそれを塗りつぶした。
自分には、澪という最高のパートナーがいる。今の泥沼さえ乗り越えれば、輝かしい未来が待っている。
その日の帰り道、追い打ちが実家からかかってきた。
電車に乗っていると、母親から激しい怒りの電話が入った。
『あんた、正気なの!? 不倫ってどういうこと!?』
スマホから漏れ出す怒号に、周囲の乗客が怪訝そうにこちらを見る。
恭介は苛立ちに身を任せ、声を張り上げた。
「うるさいな! 不倫じゃない。俺は本気なんだよ。志保とはもう終わってるんだ」
『本気? 笑わせないで。不倫して恥を晒した男が、本気なんて言葉を使うな!』
「……最終的には、澪さんと再婚する気だ。彼女こそが俺にふさわしい女性なんだよ」
その言葉に、母親はさらに激昂した。
『正気じゃないわね。不倫してまで付き合った女を、この家に嫁に入れられると思ってるの!? 恥を知りなさい!』
「認めなくていい! 俺はもう一人前なんだ、いちいち指図しないでくれ」
『いいわ。せいぜい慰謝料を搾り取られなさい。援助は一切しないから、後で泣きついてきても、絶対に助けないわよ!』
ブチッ、と電話が切れた。
静寂が戻った車内で、恭介は激しくスマホを握りしめた。
「……しねえよ」
小さく毒づく。
母親の拒絶さえも、彼の中では「古い価値観への反抗」という正当な物語に変換されていた。
翌日。
私は上司から、ある打診を受けた。
「桐谷さん。来月から始まる新規プロジェクト、君にリーダーを任せたいと思っている」
不意の提案だったが、私の実績を考えれば妥当な流れだ。
期待のこもった上司の視線を受けながら、私は淡々と承諾した。
恭介が自分で作った虚構に足を取られている一方で、私は現実的なキャリアという階段を一段、確実に登った。
「来月までには、この茶番を終わらせないとね」
私はため息をついて、恭介のことを頭から追い出した。
その夜、恭介からLINEが届いた。
『実家とちょっと揉めたけど、まあ問題ないよ。お母さんも、最後には分かってくれると思う』
志保さんの指示通り、私は当たり障りのない、けれど彼に希望だけを持たせる返信を打った。
『お母さんも、最終的には分かってくれるはず。二人の気持ちが固まっていればね』
送信ボタンを押すと、すぐに「既読」がついた。
恭介は、澪の返信を見て、ホッと息を吐き出した。
(志保は妻失格だった。もう少しで全部丸く収まったのに、あの女が計画を台無しにした。それでも、澪だけは俺を信じてくれている)
自分の間違いを認めることなく、すべてを他者のせいにする。
その歪んだ認知こそが、彼を破滅へと導く最短ルートだった。
彼は満足げにスマホを持ち直し、指を走らせた。
『澪、決めたよ。君との将来のために、妻と離婚することにした』




