3章|共闘、あるいは奇妙な同盟
「だから、後々のために。あなたから彼を訴えた方がいい」
志保さんは、至極真っ当なトーンでそう告げた。
場所は、先ほどの面会室のまま。
目の前には、冷めきった紅茶と、にこやかな表情をした「本妻」が座っている。
私は、あえて視線を逸らして答えた。
「……いいえ。私はただ、穏便に済ませたいだけです。彼とはもう縁を切ります。この件は、なかったことにしたい」
私の人生において、恭介という男は単なる「計算違い」に過ぎない。
わざわざ泥沼の争いに身を投じて、キャリアに傷をつける必要はない。
静かに、速やかに、ゴミ箱へ放り込めばいい。それが私にとっての最適解だ。
けれど、志保さんはふっと口角を上げた。
それは、楽しい計画を思いついた人の笑みに見えた。
「そうですね。あなたは仕事に責任感があるし、社会的信用は大事ですよね」
肯定されたはずなのに、背筋に冷たいものが走る。
「でも、想像してみてください? 今、私がこの不倫をあなたの会社に告発したら、どうなるかしら。あなたが『騙されていた被害者だ』と主張しても、それを裏付けるものがなければ、周囲には『不倫に走った不道徳な女』として記憶される。今の時代、そういう噂ひとつでキャリアってねえ?」
喉の奥が、ひくりと鳴った。
論理的な脅迫だ。
彼女は私の弱点を正確に把握している。バリキャリとしてのプライド、積み上げてきた評価。それを人質に取られた。
「あなたのためにも、先手を打っておいた方がいいと思うんですよ。彼を訴え、彼が加害者であることを公的な記録に残す。それが、あなたにとって最大の保険になるんじゃないかな?」
……完敗だ。
もう、この人のペースだ。
とことん恭介を追い詰めたいようだが、私としては、勝手に争ってほしいだけなのに。
だが私は今、志保さんの指示に従うしかない、都合の良い駒だ。
「……わかりました。恭介を訴えることにします」
私の降伏宣言に、志保さんは満足そうに頷いた。
その表情は、まるで手慣れた飼い主が、言うことを聞いた犬を褒めるかのようだった。
テーブルの上で、スマホが短く震えた。
恭介からだ。
朝から既読をつけていない彼のトーク画面に、新しいメッセージが積み重なっていく。
「見せてください」
志保さんが私の隣の席に移ってきて、画面を覗き込む。
促されるまま、私は初めてそのトークを開いた。
『澪、もうすぐ妻に離婚を切り出すよ。時間はかかるだろうけど、必ず君を幸せにする。待っていてね』
画面を見つめながら、私は思う。
この男、本当に救いようがない。
そんな裏事情を、恭介が知る由もない。彼は相変わらず、「自分は完璧に状況をコントロールしている」と信じ込んでいるのだろう。
自分がどれほど醜い状況にいるかも知らず、甘い言葉を吐き散らすその神経。
もはや怒りよりも、その滑稽さに呆れ果てていた。
「ふふっ、呆れ顔ですね」
隣で、志保さんがクスクスと笑う。
「彼、完全に舞い上がってますね。自分が最高のタイミングで、妻と愛人の両方を手懐けていると思っているんでしょう。滑稽ですよね、本当に」
志保さんの言葉通りだ。
恭介は今、私との結婚生活を想像しているのだろう。
それがただの妄想だということにも、気づかずに。
「で、ここからが私の出番ですよ、澪さん」
志保さんが、いたずらっぽく目を細めた。
「彼が離婚を切り出す直前に、私の方から離婚したいと宣言します。不倫の証拠と一緒に。
あなたは彼に『希望』を与え続けてください。
彼が『今すぐ離婚して、澪さんの元へ行かなければ』と焦るくらいに、期待を持たせて」
私は、投げやりに聞き返した。
「……私に、何をしろと」
「餌役ですよ。彼にとっての『最高の報酬』を演じてください。例えば……」
志保さんが、具体的に指示を出す。
「『あなたと結婚できるなら、今の悩みも全部消えそう』とか、『離婚して誠意を見せてくれるなら、やり直したい』とか。そういう、許しの予感をチラつかせるんです」
自分を騙した男ではある。
それでも、多少の罪悪感がないわけではない。
けれど、志保さんの視線が、私に現実を突きつける。
これは、私の社会的死を防ぐための「コスト」だ。
私は仕方なく、恭介への返信を打ち込んだ。
『ありがとう、恭介さん。あなたの誠意がよくわかりました。その時を、お待ちしています』
送信ボタンを押す。
画面にはすぐに既読がつき、数秒後、ハートの絵文字が三つ並んだ返信が届いた。
……早い。
「ふふ、上機嫌ですね」
志保さんは頬杖をついて画面を眺めながら、楽しそうに言った。
「ねえ、澪さん。ひとつ、お願いがあるんです」
「……お願い、ですか」
「あの人が『妻に離婚を切り出す』日。私、すごく楽しみにしてるんです。だから、あの人がそれらしい素振りを見せたら、すぐ教えてください。『今夜、話があるんだ』とか、そういう空気を出したら」
「……教えたら、どうなるんですか」
「あの人が格好よく切り出す前に、私が先に言うんです。『離婚してください、証拠はこちらです』って」
志保さんは、うっとりと目を細めた。
「一生に一度の、あの人の『えっ?』って顔。想像するだけで、ごはんが三杯いけます」
私は、乾いた笑いを返すしかなかった。
画面の中では、恭介のハートの絵文字が、まだ増え続けている。
……この男は、自分の足元がもうすぐ消えることを、知らない。




