第2章|「あの人はそういう人です」
人生において「損」をするという選択肢は、私の辞書にはない。
効率的に、論理的に、最大のリターンを得る。それが私の信条であり、これまでバリキャリとして生き抜いてきた勝ちパターンだ。
なのに、どうして。
どうして私は、あんな低俗な詐欺師に二年も時間を投資してしまったのだろうか。
翌日、眠れないまま恭介の名前を検索して、最初にヒットしたのは、彼の妻が運営しているらしい料理アカウントだった。
スマホの画面に表示された、恭介の妻・志保さんの写真。
上品な微笑み。非の打ち所がない美貌。
それを見た瞬間、私の脳内では激しい演算が行われていた。
(……ありえない。最悪だ。黒歴史すぎる)
「離婚するから、君と結婚したい」
あの身勝手な言葉に、一瞬でも期待してしまった自分への嫌悪感で吐き気がする。
友人たちに「素敵な彼ね」と羨ましがられて、少しだけ得意になっていた記憶が、今となっては泥のような屈辱に変わっている。
恭介からは、朝からLINEが何通も届いていた。
私は、既読もつけず、返信もしないと決めた。
彼という存在を、私の人生からデリートする。
記憶からも、心からも、完全に消し去りたい。
そうだ、仕事に没頭していればいい。
目の前のタスクを完璧にこなせば、不快な感情などノイズとして処理できるはずだ。
そう信じて、私は猛烈にキーボードを叩いていた。
その時だった。
「桐谷さん、受付に面会の方がお見えです」
内線電話の声に、指が止まる。
アポなんてない。
誰だろう。
「どなたですか?」
「ええと、桐谷さんのご友人と……。お名前は、志保さんとのことです」
息が止まった。
血の気が引き、指先がわずかに震える。
……来た。
最悪のタイミングで、最悪の相手がやってきた。
急いで社内面会室へ向かう。
廊下を歩く間、周囲の同僚たちが「誰あの方?」「綺麗な人が来てる」とひそひそ声で話しているのが聞こえた。
そのざわめきが、今の私には、処刑台へ向かう私に浴びせられる野次のように感じられた。
面会室のドアを開けると、そこには写真通りの女性が座っていた。
ベージュの落ち着いたセットアップに、控えめなパールのネックレス。
洗練された佇まいは、このオフィスという公の場に完璧に馴染んでいた。
彼女は私を見た瞬間、ふわりと微笑んだ。
その余裕のある態度に、私は一気にパニックに陥った。
「あなたが澪さんね。初めまして」
凛とした声。
私は立ちすくみ、声を絞り出した。
「……急に、どうして。会社まで、どうやって……」
「あなたの勤務先を特定するのは、それほど難しいことではありませんでしたよ。恭介が、あなたの会社のロゴが入った封筒を大切に持っていたものですから。二年前の夏からでしたよね、お付き合い」
さらりと恐ろしいことを言う。
この人は、私を追い詰めるために来たのだ。
正論で殴り、社会的地位を失墜させ、絶望の淵に突き落とすために。
私はたまらず、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。本当に、申し訳ありませんでした。私は……彼に騙されていたんです。今すぐにでも関係を清算します。二度と、彼とは会いませんから」
誠実であること。それが大人の作法だ。
私は全力で謝罪し、この場を切り抜けようとした。
ところが。
志保さんは、意外そうに小首をかしげて笑った。
「いいんですよ、そんな謝罪。あなたも被害者でしょう?」
……え?
「あの人、嘘をつく時だけ誠実に見えるんです。才能ですよ」
その言葉に、私は呆気にとられた。
私の心の中で、恭介の「誠実そうな顔」が再生される。
あの、少しだけ眉を下げて、真剣な目で私を見つめていた表情。
あれがすべて、計算ずくの「才能」だったということか。
寒気がした。
同時に、今まで感じたことのない奇妙な共感と、志保さんという女性への興味が湧いてきた。
志保さんは、バッグから丁寧にラッピングされた小箱と、温かい紅茶のボトルを取り出した。
「お疲れでしょう? 少し休憩してください」
そう言って、私の前にそっと置く。
強引に乗り込んできたはずなのに、その所作は至極穏やかだ。
この人は、どうしたいのだろう。
まず、それを確認しなければ。
「単に別れて終わりにするのは、もったいないと思いませんか?」
志保さんの瞳に、静かな光が宿った。
「私は、離婚を決めています。証拠は、もう十分に揃っています。取れるだけ慰謝料を搾り取るつもりです。……あなたにも、おすすめしたいなと思って」
「え……?」
「あなたも彼に騙されて、二年も時間を無駄にした。被害者として、あなた自身の名前で彼を訴えた方がいい。正当な対価を、あの男から取り戻しましょう」
私は反射的に拒絶した。
「いえ、私はもういいです。黒歴史として、早く忘れたいだけなので……」
だが、志保さんはにっこりと笑い、私の目をまっすぐに見た。
その笑みは、誘惑というよりも、熟練の猟師が獲物を追い込む時のそれに似ていた。
「忘れるのは、お金を回収してからでも遅くないですよ?」
志保さんはゆっくりと身を乗り出し、声を落とした。
「私、あの人を訴えたいんです。あなたの名前で」
その言葉と同時に、彼女は紅茶のボトルを私の前に置き直し、にっこりと笑った。
その提案は、あまりにも不穏だった。




