第6章 私の人生は、なるようになるだろう
待ち合わせの場所と時間は、昨夜、私が志保さんに伝えた。
その直後に、私は恭介の連絡先をすべてブロックした。
LINE、電話、SNS。彼が私に辿り着けるルートは、これでもう残っていない。
待ち合わせ場所は、都心の喧騒を少し外れた、洒落たテラスカフェだった。
きっと恭介は、ここで「ようやく二人になれたね」と、いつもの自信満々な笑みを浮かべて、私を抱きしめるつもりだったのだろう。
彼にとって、ここは最高の再スタートを飾るための舞台。
でも残念なことに、演出家は私ではなかった。
「ここなら、ちょうどよく見えますね」
隣で、志保さんが弾んだ声を出す。
私たちは、通りを挟んだ向かいの街路樹の陰に並んで立っていた。
距離はあるが、昼下がりの通りは静かで、テラス席の声はよく通る。
「あ、来た。いい笑顔してますね。守ってあげたいくらい」
「……それは、皮肉ですか」
「半分は本気です」
視線の先には、ブランド物のジャケットを羽織り、期待に胸を膨らませて足早に歩いてくる恭介の姿があった。
離婚成立という「障害」を取り除き、手に入れたばかりの自由と、私というトロフィー。
浮かれきった彼の足取りは、どこまでも軽やかで、滑稽だった。
彼が指定のテーブルに着いた。
そこに座っていたのは、私ではなく、能面のような表情をした藤堂弁護士だった。
恭介が、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まるのが、遠くからでも分かった。
おそらく、今の彼の思考回路はこうだ。
(え? なぜ弁護士が? 澪はどこだ? 何かの間違いか?)
しかし、藤堂弁護士に「間違い」という言葉は通用しない。
彼は淡々と、あらかじめ用意していた書類をテーブルに置いた。
「桐谷澪さんの代理人として、貞操権の侵害による慰謝料請求を、正式にお伝えします」
動かしがたい事実が、恭介の頭上に突きつけられる。
絶望に染まる彼の顔が、スローモーションのように崩れていく。
パニックに陥った彼は、慌ててスマホを取り出し、私に電話をかけようとした。
けれど、無駄だ。
彼のスマホの向こうに、私はもういない。
「……っ! なんで! 澪! 澪、どこにいるんだよ!」
周囲に聞こえそうなほどの声に、私は思わず、街路樹の陰へ半歩下がった。
藤堂弁護士が、静かに釘を刺す。
今後、いかなる手段を使っても彼女に接触すれば、さらなる法的措置を講じること。
そして、会社へも改めて内容証明を送ることになると。
社会的な死を宣告され、恭介はその場に崩れ落ちた。
かつて「ほら、俺ってちゃんとしてるだろ?」と胸を張っていた男が、今はただの、みすぼらしい一人の男としてそこにいた。
「恭介のあの顔、最高でしたね」
志保さんが、心底満足そうに呟いた。
「ははは、そうですね」
私は、乾いた笑いで答えた。
正直に言えば、少しだけ引いていた。
この人の「最高」は、たぶん私の想像より、ずっと深い。
志保さんは、くるりとこちらに向き直り、私の手を両手で包んだ。
「澪さん、ありがとうございました。おかげさまで、気が済みました」
「……いえ。私は、巻き込まれただけですので」
「それでも、です」
力強く握られた手が、思いのほか温かい。
共通の敵を排除するために手を組んだ、奇妙な連帯感。
多少強引だった自覚は、きっと志保さんにもあるのだろう。
「今度は、ただのケーキを持ってきますね」
そう言って、志保さんは手を離した。
駅へと向かう背中は、一度も振り返らなかった。
その足取りは、これまで見たどの瞬間よりも軽かった。
数週間後。
私の日常は、驚くほど静かだった。
恭介のその後は、藤堂先生から、風の噂のように聞いた。
会社では集中力が切れたのか、些細なミスが増え、当然のように降格になったという。
信頼していた同僚たちからも静かに距離を置かれ、彼は完全に孤立したらしい。
けれど、彼らしいといえば彼らしいことに、今でも彼は、身近な人間にこう言い聞かせているそうだ。
「俺は悪くなかった。ただ運が悪かっただけだ。志保と澪に騙されたんだ」
反省することなく、自分を悲劇の主人公に仕立て上げる才能だけは、一級品だったらしい。
それを聞いて、私は、ああ、あの人らしい、とだけ思った。
その日の昼休み。
会社近くのカフェで、私は彩花と麻衣と、久しぶりにランチをしていた。
「澪! 相変わらず仕事ばっかりだね。いい年して、まだそんなに頑張ってるの?」
彩花が、わざとらしいほど高い声で話しかけてくる。
隣では麻衣が、「うちもやっと、新居のリビングが完成してさ」と、写真をスマホで見せながら笑っていた。
彩花も、最新の育児グッズの写真を見せて、「やっぱり子供がいる生活って、人生の完成形だよね」と、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
以前の私なら、この言葉に胸が締め付けられていたはずだ。
二十九歳という年齢。
「結婚して家庭を持つこと」が人生の正解であり、そこから外れることは敗北を意味すると信じていた。
でも、今の私には、彼女たちのマウントが、ただの賑やかなBGMにしか聞こえない。
「まあね。来月から、新しいプロジェクトのリーダーを任されるの。楽しみで仕方なくて」
私はにこやかに答え、運ばれてきたパスタにフォークを入れた。
結婚という正解。
仕事という正解。
その二択から、私は降りることにした。
新しいプロジェクトの初日。
私はパソコンの電源を入れ、真っ白な画面に向き合う。
(結婚って、そんなに良いもんじゃないんだな。まあ、人生なるようになるか)
そんなことを考えている自分に、少しだけ驚いた。
不確定な未来。
正解のない明日。
それも、そう悪くない。
私の人生は、ここからだ。




