第五話 初めての人間
ドラゴンの姿が空の彼方へ消えていくのを見送った後、俺は改めて街道へ目を向けた。
「さて……」
とりあえず歩くしかない。
異世界に来てまだ半日も経っていないが、すでに色々ありすぎて頭が追いついていなかった。
バンジージャンプ。
異世界転移。
レベル80の熊。
ドラゴン。
普通なら一生分のイベントである。
「今日はもう何も起きないでくれ……」
切実な願いだった。
しかし、そんな願いを聞いてくれるほど世界は優しくなかった。
まず腹が減った。
俺は肩に掛けていた小さなショルダーバッグを漁る。
中から出てきたのは財布、スマホ、そしてペットボトルのお茶。
さらに小袋のグミ。
社員旅行へ向かう途中、コンビニで買ったものだ。
「助かった……」
思わず呟く。
異世界転移ものの主人公は大体手ぶらな印象があったが、俺は運が良かったらしい。
いや、運が良いのか?
レベル80の熊に追い回された直後だぞ。
自分でもよく分からなかった。
とりあえずグミを一粒口に放り込む。
甘い。
異世界に来て初めて感じる安心感だった。
お茶を少し飲み、再び歩き始める。
街道は思ったよりしっかり整備されていた。
幅も広い。
馬車がすれ違える程度にはある。
ただし。
誰もいない。
本当に誰もいない。
「三千年前の情報じゃないだろうな……」
思わず空を見上げる。
ドラゴンに悪気はなかったと思う。
ただ、時間感覚がおかしいだけだ。
たぶん。
きっと。
そう思いたい。
◇◇◇
数時間後。
太陽が傾き始めていた。
足が痛い。
喉も渇いた。
お茶は残り半分以下。
グミも残りわずか。
「町まだかよ……」
思わず弱音が漏れる。
ドラゴンの言う通りなら、もう着いていてもおかしくないはずだった。
しかし見えるのは街道と草原ばかり。
建物一つ見当たらない。
やがて日が沈み始めた。
仕方なく街道脇の木陰で休むことにする。
野宿である。
人生初の野宿だった。
寝袋もない。
テントもない。
虫除けもない。
知識もない。
「会社の研修より酷いな……」
誰もいない夜道でぼやく。
だが眠れるはずもなかった。
遠くから聞こえる獣の鳴き声。
草むらの物音。
得体の知れない気配。
その度に飛び起きる。
結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
◇◇◇
翌日。
眠い。
腹が減った。
足が痛い。
喉も渇いた。
そして町がない。
「ヴァルグラムぅぅぅ……」
思わず恨み言が漏れる。
別に悪い竜ではなかった。
むしろ親切だった。
ただ情報が古かっただけだ。
致命的に。
昼頃にはお茶も残りわずかになっていた。
グミも最後の一粒を食べる。
これで食料はゼロ。
財布の中には日本円がある。
だがこの世界で使える保証はない。
「詰んだかもしれない……」
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
ガラガラ、と。
遠くから音が聞こえた。
俺は顔を上げる。
街道の先。
小さな影が見えた。
動いている。
近付いてくる。
やがてそれが馬車だと分かった。
「人だ!」
思わず叫んだ。
人間だ。
異世界に来て初めて見る人間だ。
俺は反射的に駆け出した。
そして。
その瞬間。
「止まれ!!」
怒鳴り声が響いた。
馬車の前にいた男が剣を抜いていた。
さらにもう一人。
こちらは槍。
明らかに戦闘態勢だった。
「え?」
俺は立ち止まる。
護衛らしき男たちは警戒心を隠そうともしない。
よく考えたら当然だった。
森の方から突然ボロボロの男が飛び出してきたのだ。
俺でも警戒する。
「何者だ!」
剣士が鋭い目で睨む。
「えっと……安本大介です」
「なんの用だ!怪しいやつめ!」
「なんでもいいんで助けてください!」
思わず叫んでしまった。
何を言っているんだ俺は。
護衛たちも一瞬困惑していた。
すると馬車の中から声がした。
「待て待て」
恰幅の良い中年男性が顔を出す。
商人だろうか。
豪華な服を着ている。
「見たところ腹を空かせた旅人ではないのか」
「しかし旦那」
「この不帰の森の街道から現れたんですよ?」
護衛が険しい顔で言う。
それを聞いた商人の表情も少し変わった。
「……確かにな」
森を見る。
そして俺を見る。
もう一度森を見る。
何かがおかしいと思ったらしい。
「お前、どこから来た」
「森です」
「見れば分かる」
ごもっともだった。
俺もそう思う。
護衛の一人が前へ出る。
「ステータスを見せろ」
「ステータス?」
「知らないのか?」
知らない。
いや、見方は知っている。
出し方はなんとなく分かる。
意識すると、目の前に半透明の板が現れた。
護衛がそれを覗き込む。
そして。
固まった。
「……は?」
隣の護衛も覗き込む。
固まる。
商人も見る。
固まる。
何だ。
嫌な予感しかしない。
数秒の沈黙の後。
護衛の男が呟いた。
「レベル……1?」
空気が変わった。
全員の視線が俺に集まる。
「おい」
「なんですか」
「嘘だろ?」
「俺に聞かれても」
困惑しているのは俺も同じだった。
護衛たちは顔を見合わせる。
そして再び俺を見る。
まるで信じられないものを見るような目だった。
「お前……」
剣士がゆっくり口を開く。
「こんな場所で、よく生きてたな」
それは俺も思った。
本当に。
心の底から。
人に会いました




