第七章 逢瀬
(なぜここに…)
君がいるのか。あなたがいるのか。
二人の瞳は同じ疑問を浮かべて見つめ合った。
オクタリアの第三王女、ユリ・ファブリーズ。
トリトニアの唯一の王子、キンタ・ロック。
互いの正体を知り、二人は溜飲を下した。
(ああ…)
こんなに早く君に会えるなんて。
キンタのほどけた瞳の色を見て、ユズも感極まる。
差し出された手に縋りつこうとして、不意に我に返った。
何者かに叩かれたかのようにさっと手を戻し、辛そうに顔を背けた。
「ユズ?」
何が彼女をそうさせたのか、キンタにはわからない。今にも自分の方に抱きついてきそうだったのに。
ひょっとして、これは自分の独りよがりか?この少女が自分を好いていると思ったのは勝手な思い込みだったのだろうか?それとももう…自分に愛想をつかして…心変わりをしてしまったのだろうか?
ユズは言った。それこそ蚊の鳴くような声で。消え入りそうな声で…。
「ごめんなさい…」
「ユズ!?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…」
何度も何度も繰り返し、ユズは同じ言葉を口にする。目にいっぱい涙を溜めて…。
「ユズ…」
「…ごめんなさい…」
たまらずキンタは動いた。
か弱く首を払って謝るユズに駆け寄り、抱き締めた。
一瞬ユズの謝罪が止まる。だが次の瞬間に彼女はもがいてキンタの腕の中から逃れようとした。
「だめ…。だめなの…。ごめんなさい。私、あなたに嘘ついた。あなたを騙したわ。こんな…。こんな成り行きであなたに再び会うなんて…」
自分が許せない、とユズは言うのだ。
「ユズ!!」
キンタはユズを離さない。王子とは言え、それなりに身体は鍛えている。同じ年頃の少女が抗しきれるものではなかった。
「…見ないで、おねがい…。私を見ないで。こんな私…見られたくなかった。あなたにだけは…」
母に命ぜられたこととはいえ、なんというはしたない格好で殿方の前に身を晒しているのだろう。夫でもなく、愛する人でもない、見ず知らずの男の元へ、自分は自ら足を運んだのだ。
「謝るのはオレの方だ。隠していて悪かった。オレは君を傷つけた。許しを請わなければならないのはオレの方なんだ」
ユズは違うと首を振る。
「オレが一方的に君に熱を上げて…君の唇を奪った。君の境遇を確かめもせず…自分の立場を顧みることもせず…」
違う、違うとユズは訴える。
「軽率すぎた。すまなかった。だが…」
「違う、違うわ、ロック…」
「聞いてくれ。オレは…これだけは嘘じゃない。君が好きだ。ユズが好きだ。よくわかった。君に会わずにいることはできない。君をいつも見ていたい。オレのそばに…いてほしいんだ…ユズ…」
「…あ…あ…」
「君が嫌なら無理にとは言わない。君がオレのことを…少しも好きでないのなら…オレを殴ってこの場を去ってくれ。でもそうでないのなら…」
その先に言うべき言葉をキンタは見つけられなかった。
己の腕の中でもがくのをやめ、キンタの言葉に咽びながら聞いているユズの姿を、愛しすぎるとキンタは思った。
薄物の合わせ目から滑らかな美しい肌が見え隠れする。見るなと言われても、どうしても目が離せない。この状況で我慢しろというのは無理な相談だとキンタは思った。先ほどまでは蹴り出してやりたいと思った同じ肉体なのにおかしなことだと彼は自嘲した。
「オレを…受け入れてくれるのなら…今一度、君にキスするのを許してほしい…」
ユズの身体から突如、力が抜けた。
頽れそうになるユズの身体を床上で支え、キンタは彼女を抱き締めた。
気を失ってしまったかと思えるほどに力ない手足に活力が戻る。おそるおそる、ユズはキンタの背に腕を回した。その胸に顔を寄せ、安らぎの微笑みをその面に浮かべた。
やがてキンタが身じろいだ。ユズの頬を手で捉え、己が顔を寄せる。慄くユズの唇に熱く潤った唇を重ねた。キンタの哀願にユズはおずおずと応えた。
なんという歓びだろう。恥ずかしげもなく一平にキスをねだる姉の姿にキンタは呆れたものだったが、この快感を欲していたのであれば頷けると、今初めて姉の行為を理解した。愛する者が自分のことも愛してくれているという実感。言葉がなくてもはっきりと心が感じ取れる至福のひとときを永遠のものにしようと、二人は己の身体に刻みつけた。
熱く滾った身体を落ち着かせるべく横たえて、二人は静かに語らっていた。キンタにとって初めての女性の柔肌はまだ包み隠さず彼の傍らにある。この身体が入室して来た時には全くその気はなかったのに、わからぬものだとキンタは思う。これが世の男女の不思議というものだろうか。心に思う人がいる時、人はその人としか肌を合わせたくなくなるのだ、きっと。
義兄もきっとそうだったのだ。不幸にして妻であるキンタの姉を失いながらも、後添えの話を頑として拒み続けている。まだ幼い一子アスランには母親が必要だというのに。まだ二十歳という若さで、一年にも満たなかった姉との結びつきを貫き通そうとしている。
今ならわかる。義兄の気持ちが。
幾度となく攫われたに等しい姉の身を案じた日々が、義兄にとってどれほど苦しい時であったかが。このユズが敵―とまでは言わないまでも、他の男の手にかけられたら、自分はとても耐えられまい。
「キンタさまでよかった…」
耳慣れぬ呼び名にキンタは物思いを妨げられた。
「…なんだよ。ロックでいいよ」
ユズにそんなふうに呼ばれるのはなんだか居心地が悪い。
「でも…あのね…私…お母さまに言われて、どうしようって思ったの。お母さまはお姉さまと私をそれぞれトリトニアとジーへの貢ぎ物としてお考えだったのですもの。たまたまジーご出身のナシアスさまの方がお姉さまに近いお年で、トリトニアのキンタさまが私と同い年だったからこういう組み合わせになたわたんですわ。一つ間違っていたら、私は今頃ジーのお方のものに…」
キンタは今更ながらにハッとした。
一平の副官のナシアスはジーの出身だ。現在トリトニアの軍籍下にあり、一平に剣を捧げているが、そもそもジーのジーニアス王の甥なのだ。そして何より女性に手が早い。据えられたお膳を放り出すことなど端から彼の選択肢には入っていない男だ。
そうだ。何か一つ歯車が狂えば、ユズは今キンタの腕の中にはいなかった。見も知らぬ男に身体を開かれて…それもそうとは知らず同じ建物の中で。自分は自分で他の女に迫られていたかも知れなかったのだ。
「ユズ!!」
キンタは思わずユズを引き寄せて抱き締めた。先ほど己のものとなった華奢な身体が芳しい芳香を醸し出した。キンタは今一度ユズに口づけた。
「お母上に…オレの方からお願いする。オレがもう少し人々から信頼を得るようになったら…ユズを我が妻に貰い受けたいと。…それまで…待っていてくれるか?誰の貢ぎ物にもならずに…」
「…キンタさま…」
「ロックでいいって言ったろ?オレは君のことをユズと呼ぶよ、これからも。…返事は?」
きちんとした返事を聞いておきたいと、キンタは相手の返事を催促した。あやふやなのはもうごめんだ。
ユズは頬を染め、恥じらいながら頷いた。
「はい…。お待ち申し上げます。いつになろうと」
微笑んでキンタは言う。
「本当は、今すぐにでもトリトニアに連れてゆきたい。こう言ってはなんだが、お母上は野心家だからな」
「まあ…」
ユズも微笑う。
「大丈夫ですわ。しばらくは大事なお客さまも予定されていませんし、夜伽の専門職には不自由していませんのよ。今回は特別。お母さまはどうあってもトリトニアとジーと協定を結んでおきたかったのです。端から私たち姉妹を両国へ嫁がせる心づもりでした」
「その話はもう来ているのかな?父の元へは」
少なくともキンタは寝耳に水だ。
「いえ。多分まだ…」
「まだだといいな。やはりこう言うことは男の方から申し込まないと…」
「ま…」
案外体裁を気にするのだ、とユズはキンタの可愛らしく小心な面を見て微笑ましく思った。
「絶対だよ!?」
「え?」
急にキンタは言葉と手の両方に力を込める。
「誰にも、許しちゃダメだからね。君はもう実質的にはオレの妻なんだから…」
「妻!?」
ユズの頬がぽっと染まる。なんとこそばゆい響きなのだろう。
「そうだよ。誰にも触らせちゃだめだ。キスもだよ」
子どもに返ったように急いで言い募るキンタに、未来の妻は母親のように優しく言い聞かせた。
「あなたもよ…」
女なんて面倒臭いだけだと思っていた。
相思相愛になった途端にいろいろ制約を設けたり注文をつけたりしてくると。姉のパールを見ていてそう思った。
でも実際は逆じゃないか。
半ば強引に自分のものにして、相手を縛り付ける。
自分がそんなことをしようとは夢にも思っていなかった。
だが今の自分はどうだろう。
かつて自分が批判していたそのものを体現してしまっている、
仕方がない。
これが恋というものさ。
キンタは開き直った。




