第二十六章 ごめんなさい。
「………ふぅ」
私は布団にくるまりながら、もう何度吐いたか分からないため息をつく。
既に月はてっぺんを少し超え、あたりはしんと静まり返っている。それなのに私は全く眠れず、こうしてごろごろと寝返りを打ってはもやもや考え事をしていた。
「………ダメだ、眠れない」
ここまで眠気が来ないのなら、いっそ寝る事を諦めてしまおう。私はベッドから身を起こし、応接室へ向かった。
ここの照明はいったいどんな仕組みになっているのか、人間がいなくなると自然に消える。逆にこうして足を一歩踏み入れると目に優しい光が灯り、部屋を照らしてくれた。最初はスイッチが見当たらなくて焦ったんだけど…ほんと、不思議だわ。
とはいえ、こっちに来ても特に何をするわけでもないんだけど…
私はうろうろとあてもなく部屋の中を歩き回る。ふと、ハイドの執務机が目に入り、そちらへ向かう。
端の方に書類が積み重ねられ、その脇に紋章らしき複雑な文様が彫られた判が置かれている。反対側には羽ペンとインクつぼ。きっちり整えられた机にそっと触れる。磨き上げられた木の感触がひんやりと指に伝わってくる。
(…いつもここで、残った仕事をしてるのね)
ハイドは、1人でどれだけの債務を負っているんだろう。この国に2人しかいない聖騎士。その重みがどれだけのものなのか、私には皆目検討もつかない。ただ、お城の人達の態度を見ているだけでも何となくは伝わってくる。
文武両道、地位も高く、だからこそ計り知れない数多くの物を背負って生きているハイド。
……私の存在は、彼の重荷になっていないだろうか。
異端者が、この国において非常に特殊な存在だという事は十分に理解した。あんなにあっさり国王にお会い出来た…というか、国王直々に会いたいと仰るなんてよっぽどだ。今でも謁見を思い出すと手に変な汗をかく。
でも、私は未だに異端者がどういう意味で重要な人物なのか、よく理解出来ていない。自分にそんな能力があるとも思えない。だから余計にハイドにとって負担になっていないか不安になる。
「……会いたいな」
ぽつりと零してしまうと、その思いはますます強くなる。会いたい、会ってちゃんと謝りたい。目尻から涙がぽろりと一粒落ちた。
その時、目の端で何かがキラリと光った。そちらに目をやり、
「あ...」
お風呂に入る前、ハイドの執務机に透明な器を置き、水を張って浮かべておいたナイトリリーの蕾が今まさに開花しようとしているところだった。
慌てて駆け寄り、覗き込む。半分ほど開いてきている花びらの内側が、仄かに発光している。さっき光ったように見えたのは恐らく蕾が開いた事によって光が漏れ出したせいだろう。
「綺麗...」
白とも青とも付かない儚い光は、花びらがゆっくり開いていくにしたがってどんどん輝きを増していく。
頬杖をついて夢中で眺めてどれくらい経っただろう。八割がた咲いていた花が、重力に負けたように突然パッとその花びらを全て開いた。
途端、蛍のように淡く光る花粉が中からふわっと部屋に舞った。
「わぁ...!」
その幻想的な光景に、思わず顔がほころぶ。花粉は絶えず花からふわふわと生まれ、部屋中を浮遊する。と同時に、懐かしいような初めて嗅ぐような、何とも言えない甘くて爽やかな香りが漂ってきた。
「この光景...ハイドと見たかったな」
会いたいな...
ぽつりと零した声に、顔の近くを漂っていた花粉がふわりと動く。それはまるで意思を持っているかのように私の周りをふわふわと回り出した。
「え...?」
ふと辺りを見渡せば、いつの間にか花粉が私を囲うようにして集まっていた。
そして同時にふるりと震えたかと思った瞬間、ひとところに固まり出した。
「な、なに?何が起こってるの??」
頬杖を外し、事の成り行きを見守っていると、指の爪程に小さかった花粉達は、あっという間に一塊の大きな光の球になった。
そしてもう一度、シャボン玉が弾ける直前のようにふるりと震え...
『.........アイリ?』
光の向こうから、聞きたくてたまらなかった人の声がした。
「.....え、ま、まさかハイド?」
『やっぱりアイリか!今どこにいるんだ?』
心底驚いたようなハイドの声。もちろん私も何が起こったのか全く分からないので非常に驚いている。
「わ、私は今お城の部屋にいるよ。っていうか、何がどうなってるの?なんでハイドの声が聞こえるの?」
『一仕事終えて寄宿舎に戻って来たら、部屋のど真ん中に顔より遥かにでかい光の球が浮いてて、何事かと身構えたら光の奥からアイリの声がしたんだ。だからまさかと思って呼び掛けてみたら...返事が来た』
そりゃ身構えるだろう、部屋に突然こんな得体の知れないふよふよしたものが出現したら!
「あの、これ、ナイトリリーの花粉、みたいなの。さっきまで部屋中を小さな花粉がふわふわ浮いてたんだけど、一塊になったと思ったら...こんな感じになってた」
『ナイトリリーの……』
ハイドはそう呟いてしばらく黙り込んだ後、
『…そうか。なるほど。これはナイトリリーの花粉なのか。この花はね、見つけた者の願いを叶える花って言われてるんだ。俺も正直初めて見た。よく見付けたな』
「うん…あのね、私、ハイドに謝りたいと思って、この花を探したの。アベル様が、仲直りのきっかけになれば良いですねって言ってくれて…」
『謝りたい?仲直り?』
「ハイド、今朝は本当にごめんなさい。…ううん、今朝だけじゃなくて、昨日の夜も」
ハイドの顔が見えないおかげなのか、言いたいことがすらすらと口から流れ出る。
「私、ラデューがこっちに来いって言った時、すぐに首を横に振れなかった。ハイドの事が誰よりも大事なのに、それをきっぱりラデューに言えなかった。結果、ハイドを傷付けたんじゃないかって、怖かった」
光の向こうにいるはずのハイドから返事はない。それでも一度決壊した気持ちはそうそう止まってくれないので構わず続ける。
「私、心のどこかでずっとハイドに遠慮してたの。このまま何もせず、異端者としての義務が何なのかも分からずずっとハイドのお世話になりっぱなしになるのは申し訳ないって。だからラデューが自立して働けば良いって言った時、正直揺らいだわ」
そう、それは事実。働いて日銭を稼ぐことが出来れば、少しでもハイドの負担を減らせると思ったから。でもそれは、あくまでもハイドが傍にいてくれてこそ。
「…でも、ハイドの傍を離れてラデューの専属になる事なんて、考えられない。私は…ハイドを愛してるから。私の居場所は、ハイドの隣しかないの。」
そこでひとつ深呼吸。
「だから、ごめんなさい。ハイドの傍にいるって即答出来なくて、ごめんなさい。……嫌いに、ならないで」
我ながら話の筋がめちゃくちゃだ。…でも、言いたい事は全て言えた。胸の前でぎゅっと指を祈りの形に組んで、ハイドの断罪を待った。
ややあって、向こうから深く息を吐く音が聞こえた。
「………あの、ハイド……」
『…ああ、くそ。任務なんて放り出して、今すぐアイリのとこ戻って思い切り抱き締めたい』
「え…?」
『俺も悪かった。ラデューの言葉に、つい感情的になった。…俺も、心のどこかでアイリが自立したがってる事は分かってた。だから、的確にアイリが欲しいものを言うあいつに取られてしまうんじゃないかって、そう思ったら止まらなくなった』
淡々と話すハイド。でも、その言葉の端々に滲む後悔が、私の涙腺を緩ませた。
『ごめんな、アイリ。アイリの気持ちを何も考えず、ただ傍にいてくれなんて言って。…こんなに誰かを守りたいと思えたのは初めてで、俺も正直戸惑ってるんだ。…でも、これだけは変わらない』
私は、光の球を見据える。一言も聞き漏らさないように。
『アイリ、愛してる。世界の誰よりも。嫌いになんて、何があってもならない。これだけは、信じて欲しい』
---目尻に溜まっていた涙が、瞬きと同時にぽろっと零れた。それは私の周りをわずかに漂っていたナイトリリーの花粉に落ちる。
すると光の球が外側から徐々にふわふわと散り始めた。
「あっ…花粉が…」
『…そろそろ日付が変わる時間だからな。ナイトリリーは真夜中に受粉活動をするみたいだし』
「あ、そうなんだ…」
そうやって話している間にも、どんどん球はほどけていく。
『アイリ、待ってて。この任務が終わったら、すぐにアイリの元へ飛んで帰るから』
「うん、待ってる。…その、気をつけてね。怪我、しちゃだめだよ」
『ああ、約束する。…愛してるよ、アイリ』
「ありがとう…私も、愛してる」
その瞬間、ナイトリリーの花粉は完全に霧散し、私の周りを飛んでいた花粉もいつの間にか消えていて、部屋には元の静寂が戻っていた。
でも、私の心は温かかった。…ハイドに、ちゃんと謝れた。好きだって、伝えられた。ふと見ると、ナイトリリーの花は既にしぼんでいた。
「…ありがとう、あなたのおかげよ」
少し色あせてしまった花びらをそっとつつくと、中からまだ残っていたらしい花粉がひとつ、ふわりと飛び立って、消えた。
「ふぁ…ねむ」
気持ちが緩んだ途端、さっきまでは全く来なかった眠気がどっと襲い掛かってきた。
私はのろのろと寝室へ戻り、ぼふっと枕に顔を埋める。
そして睡魔に誘われるまま目を閉じ、眠りに落ちる直前、ハイドの無事をもう一度願った。




