第二十二章 不安定な足元
「…………あれ?」
意識が急速に浮かび上がり、目を開ける。隣を見ると、一緒に眠っていたはずのハイドの姿が見えない。
「ハイド?」
起き上がり、寝室を見渡すも姿はなし。と、隣の応接室から物音と話し声がした。…こんな時間に、お客様?
簡単に髪を直してベッドから下り、上着を肩に掛けて扉に近付く。そっと聞き耳を立ててみようとしたけれど、扉も壁も分厚いのかほとんど聞こえない。
……でも、かすかに聞こえる感じからすると、どうも良い話をしているようには聞こえない。むしろケンカしているかのように鋭い声がする。
(……開けていいのかな、ここ)
ハイドの様子も、誰と揉めてるかも気になる。私に出来る事はないのかもしれないけど、万が一の場合、専属侍女は主を守らなければいけない。それに私はどうやら魔力に恵まれているようなので、いざとなったらこの力に助けてもらおう!
意を決して、私はそっと扉を開けた。途端、
「お前、自分が何言ってるのか分かってんのかよ!」
ハイドの怒鳴り声が耳に飛び込んできて、思わず目をぎゅっと瞑って身を竦めた。
「分かっている。だからこうしてここに来たんだろう」
ケンカの相手も、どうやら一歩も引くつもりはないらしい。……あれ、この声…
「ラデュー、お前がそこまで馬鹿だとは思わなかったぞ。いつまで義姉上の影を追うつもりだ?いい加減目を覚ませ!」
「俺の目は覚めている。とっくにな。お前こそいつまで過去に縛られてる気だ?そんな事では絶対にアイリは守れない」
(え、私?)
まさかケンカの原因が自分だとは思いもしなくて動揺してしまい、身体が傾いで扉にぶつかる。その音にハイドとラデューが同時にこちらを見た。
「……あ、あの……」
二人の鋭い視線に射抜かれ、一歩後ずさる。……き、騎士様二人分の視線は破壊力ありすぎます…
「ご、ごめんなさい…お邪魔しました…」
そのまま後ずさりで寝室に戻ろうとする私を制したのは、
「良い、アイリ。そこで聞いていろ」
ラデューは右の手のひらをこちらに向け、『ストップ』の意思表示をする。そんなラデューを、ハイドは鋭い声で呼んだ。
「アイリに聞かせて何になる?混乱させるだけだろうが!」
「彼女は成人だ。自分の事を自分の意思で決められる権利がある。違うか?」
「だから自分で選んでここにいるんだろうが!」
激昂するハイドを尻目に、ラデューは身体ごと私に向き直った。その深い蒼の瞳に、何故か背筋が凍り付く。
そして一歩私に近付き、とんでもない事を言った。
「アイリ、ハイドの専属を外れて俺のところに来ないか」
「…………え?」
「ラデュー!!」
ハイドの声が、ひどく遠くで聞こえた気がした。……今、なんて?
「このままハイドの傍にいても、アイリは元の世界には戻れない。何故ならこいつは、アイリに死んだ義姉を重ねてるからだ」
「それはお前の事だろう、ラデュー!死んだ義姉上の姿をアイリに重ねてるのは、お前だ!」
だんっ!とハイドの拳が机に叩き付けられる。
「アイリ、こいつの言う事を鵜呑みにするな!俺はアイリを愛してる、絶対に最後まで守り抜いてみせる!」
「アイリ、お前は聡明だ。どちらが正しい事を言っているか、お前なら容易く理解出来るはずだ。…アイリを愛する気持ちは俺も負けていない。だから、元の世界に帰る方法を全力で見付けてやろう。俺は、決してお前をこの世界に縛り付けたりしない」
激昂するハイド。ひたすら冷静なラデュー。
「な、何を、言ってるの…?ラデューが、私を…」
言葉は喉元で詰まり、空気ごとそれをこくりと飲み下す。……言われてる意味が分からない。どっちが本当の事を言ってるかなんて、そんなの…
「……アイリ、ハイドはお前を元の世界に帰すと約束したか?」
「え?」
「帰りたがってるお前を、愛してるという言葉で引き留め、迷わせ、雁字絡めにしていないか?」
「…………っ」
言葉が、出なかった。違うって、そんな事ないって、言えなかった。
「それがハイドの愛だ。あらゆる手段でこの世界に縛り付け、自分の傍から絶対に離そうとしない。…俺は、アイリを愛しているからこそ元の世界に帰してやりたい。その選択で、お前が喜ぶのなら」
正論と甘言。頭の中で交互にぐるぐると回る。
頭が……痛い。
ハイドを見ると、追い詰められたような目でこちらを見ていた。視線がぶつかると、無言で首を振る。『そいつの言う事を信用するな』とでも言いたげに。
「ハイドは自分の義姉すら傍に繋ごうとした。俺との婚約が決まっても、なお。…こいつの独占欲は、異常だ」
がん、と頭に衝撃が走った。
「このままハイドの傍にいても、飼い殺されるだけだ。だから、こちらに来い。帰るまで自立したいと言うのなら、城を出て街で働けるように支援しよう。…俺は、アイリの意思を尊重する」
握り締めた手のひらに爪が食い込んで、指先が冷たくなっている。
……膝が震えて、足元がぐらぐらと揺れている錯覚に陥る。
きっと真っ青な顔色をしていたんだろう。ラデューは短く浅い溜め息を吐き、
「……今すぐに決めろとは言わない。だから、じっくり考えるんだ。どちらがアイリにとって必要なのか」
そう言ってラデューは最後にちらりと黙り込んだままのハイドを見遣り、
「……考えが決まったら、どちらの結論でも一度俺の部屋に来てくれ。いつでも歓迎する」
と言い残して部屋を出て行った。
後に残された私とハイドは、しばらく無言でその場に突っ立っていた。私は扉にもたれ掛かるように、ハイドは机に拳を押し当て俯いたままで。
ややあって、ハイドがゆっくりと顔を上げた。
「……アイリ、寒くないか?」
「え?あ……」
足元を見下ろして、自分が裸足で立っていた事に気付く。
「風邪ひくよ。ベッドに戻っておいで」
「あの、ハイドは…?」
「俺は…」
一瞬何かを言いかけて口を噤んだハイドは、すぐにかぶりを振った。
「…俺はまだ眠れそうにないから。先に寝てて」
そう言って無理に作った笑顔は、見てて痛々しかった。
「………うん」
それ以上何も言えず、私はすごすごと寝室へと戻った。あえて扉を開けたまま。
そしてベッドに潜り込み、扉に背を向けた。
…あんなに傷ついたハイドの顔を見るのは初めてだ。思い出すと心臓がぎゅっと縮まる。
一緒にいるべきかとも思ったけど、きっと彼は拒否しただろう。一人になりたいと言って。
それに、私は今、ハイドの傍にいるべきではない。…だってあの時、私は『ハイドの傍にいる』と、即答出来なかった。それはすなわち、ハイドの事を心から信じていないと暗に告げてしまったようなものだ。
かちゃ、と応接室から食器の擦れる音がした。ハイドが何か飲んでいるんだろうか。
……ラデューの言った事が真実だとは思っていない。だけど、ハイドはラデューの言葉を否定しなかった。ただ歯を食いしばり、こちらを見つめるのみ。だから私の中に小さな疑念の種が芽生えた。もしかしたら…と、思ってしまったのだ。
ハイドに聞こうとも思ったけれど、もし『本当だ』と言われたら私はどうすれば良いのか分からない。ハイドの傍から離れるなんて思った事もないけれど、ラデューが言ったように自立しなければいけないと思うのも事実で。
ハイドの傍にいれば、何の心配もなく日々の生活が送れる。アベル様にこの国の事を教わって、ハイドの専属として身の回りの世話をする。
…でも実際、私は侍女としての役割は何一つ果たしていない。洗濯や掃除、食事の準備は別の侍女さんがやってくれるし、アベル様のところから戻るとリネンも綺麗なものに取り替えられている。昔何かの本で読んだような、主の着替えや入浴の手伝いといった類いの仕事もしていないし、なんだかただの客人として扱われているような気がする。
『飼い殺されるだけだ』
ラデューの言葉が胸に突き刺さる。…心の片隅では、分かってた。このままじゃ専属侍女という名の愛玩人形でしかない事ぐらい。
ハイドの傍にいれば、地球とは違う現実離れした豪華な生活が出来るって、甘い夢だけを見ていられるって、どこかで現実と向き合う事を拒否してたんだ。
「私……馬鹿だ。本当に馬鹿…」
このまま迷っていると、ハイドからもラデューからもそっぽ向かれてしまうかもしれない。そうなったら、終わりだ。
自分の不甲斐なさに涙が滲んだ。どっち付かずの態度を取ったせいで、二人を苦しめる事になってしまった…
(ユミル様、私はいったいどうすれば良いのですか…?)
結局その夜、ハイドが寝室に戻って来る事はなく、私は一睡も出来ないまま朝を迎えた。




