第十四章 これがこの世界の普通
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
息が続く限り全力で来た道を戻り、ついに力尽きてその場で膝に手をついて荒く息を吐く。
必死で深呼吸を繰り返し、少し落ち着いたところでさっきの光景を思い出して身震いする。
あの箱の中に入っていたものは、夥しい量のバラの花びら、それから…
「あれは…人、なのよね…」
何かを掴むようにいびつに曲がった指。
ぴくりとも動かないそれを、一瞬人形じゃないかと逃避したが、やはり記憶をたどっても人間の指で。
「……うっ…」
思い出した途端、軽い吐き気と眩暈がして、目の端に涙が滲んだ。
お葬式には出たことがあるものの、人の死、というものにこんな形で直面したのはもちろん初めてだ。
そして出来ればもう二度と直面したくない。
「ハイド…」
私は吐き気をこらえ、一番近くにいて欲しい人の名前を呼ぶ。
どれだけ呼んでもハイドは傍にいない。きっと別の方向を探しに行ったのだろう。寂しさに押し潰されそうになり、堪えていた涙が溢れる。
知らない世界に一人ぼっち。自分の知らない常識。知らない生活。
「どうすればいいの…」
その場にうずくまり、涙を流す。答えは誰も教えてくれない。
しばらくそうしていたが、私は歯を食いしばって立ち上がる。
「…行かなきゃ、魔道室」
とにかく今は魔道室に向かおう。アベル様に会おう。私が今出来る事はそれだけだ。
ゆるゆると元の道を戻り、曲がらなかった方へ向かう。
しばらく歩くと見知った扉の前に来た。…魔道室だ。
ゆっくり扉を開くと、そこにエファが立っていた。
「おはようございます、アイリ様。…どうかなさいましたか?」
私の様子がおかしいことに気付いたのか、エファが私に歩み寄ってきた。
「エファ…」
知った顔を見てまたしても涙腺が緩む。ほろほろと泣き出した私を近くの椅子にそっと座らせて、
「…アベル様を呼んで参ります。ここでしばしお待ちを」
そう言って早足で奥へと向かってくれた。
ややあって、アベル様がこちらに駆け寄って来るのがかすかに見えた。
「アイリ、どうしました!?なぜ泣いているのです!」
「アベル様…」
その慌てた姿に、またしてもじわり、と目の端に涙が溜まる。
「何があったのです?ハイドはどうしました?一緒ではないのですか?」
「アベル様、一度に質問してはアイリ様が混乱します。お互い落ち着いてください」
冷静なエファの声に、私もアベル様も深呼吸する。
「…すみません、アベル様。取り乱しました」
「いえ、こちらこそ。…場所を移しましょう。その間に何があったのか、話してくれますか?」
私を安心させるように膝にそっと手を置かれ、その暖かさに心がやっと落ち着く。
部屋に向かう途中、私はぽつぽつと、今見てきた事を話し出した。
「…なるほど、見てしまったんですね、あれを」
全て話し終え、深くため息をついた私を、アベル様は哀れむような目で見つめた。
「私の世界ではあり得ない光景だったので…脳が、ついて来ませんでした。あれが本物の人なんだって理解した瞬間、頭が動くより先に逃げ出していました」
思い出すと、いまだに頭が震える。
でも、これは実際に起きたこと、現実なんだ。
「無理もありません。あれは拷問の一種です。一般の人間が見たら、ショックを受けるのは当然でしょう」
アベル様はそう言って優しく頭を撫でてくれた。
「あれが、拷問なのですか…?」
バラの花びらに埋もれることが拷問なんて、良いのか悪いのか分からない。
「はい。あの中には犯罪者が入れられています。…あの箱の傍に近付いた時、強い芳香がしませんでしたか?」
確かに、私の世界では嗅いだ事もない異常というぐらい強いバラの香りがした。
「しました。近付くにつれて、呼吸がしにくいほど強い香りが鼻に突き刺さって…」
「あの中に入っている花びらは、いわゆる拷問用に改良された品種なのです」
「拷問用!?」
びっくりだ。まさかそんなものの為に作られている花があるなんて!
「あのバラは『麝香薔薇』という品種です。その名の通り、花びらからは非常に強い香りが発せられます。また、強い催眠効果もあり、長時間香りを吸い続けると幻覚等の症状が引き起こされ、のち呼吸困難や昏睡、最期は死に至ります」
「そんな恐ろしいものが、この世界には存在するんですか…」
「この方法は貴族にしか用いられません。麝香薔薇は非常に栽培が難しく、また危険性が高いために王城の限られた場所でしか栽培が許されていないのです」
「貴族のための、拷問…」
「はい。身体を傷つけてしまうのは何かと差し障りのある、それなりに身分が高い人物のみに行われる方法です。ただし、あれは拷問という名の処刑ですね。一度入れられると出られません。出たとしても、まともな生活を送ることはないでしょうね」
「………」
私は黙り込んだ。アベル様はごく自然に話しているが、個人的には拷問とか処刑とかいう言葉を人生で初めて多用された気がして、軽く眉間に指を置いた。
「…喋りすぎましたね、すいませんアイリ。このお話はここで終わりにしましょう。アイリが知るべきことではありませんし、これからも関わることはないでしょうからね」
すると奥からエファが静かにやってきて、私の前で止まった。
「アイリ様、お加減はいかがでしょうか?」
表情からは分からないが、口調に心配そうな雰囲気を感じ、私は少し微笑む。
「大丈夫、何とか気分が落ち着いたわ。ありがとう、エファ」
「ハイド様には魔報でアイリ様が無事に魔道室まで辿り着いたことをお知らせしておきました。本日は仕事を早めに切り上げて迎えに来られるそうです」
「ハイド…怒ってた?」
勝手に怒って勝手に迷子になったのだ。怒られても文句は言えない。
「いえ、口調から怒っている様子は見受けられませんでした。ただ、非常に安堵されている印象ではありましたが」
「…そう、良かった」
「それにしても、どうしてハイドは貴方から離れたのですか?彼が貴方から離れるなんてあまり考えにくいのですが…」
アベル様に聞かれて、私は言葉に詰まる。…一人で勝手に怒って暴走しました、なんて言ったら何言われるやら…
「…アイリ?」
見つめられると逃げようがない。観念して箱を見付ける前の経緯を全て話す。すると…
「…あぁ、ジュモーですか…」
話を聞いたアベル様は深い深いため息をつき、椅子にもたれかかる。
「彼は誰なんですか?なんだか、ハイドと仲が悪そうでしたけど…」
「そうですね、仲が良いとはとても言えませんね…どうしてか、ハイドが入団してから今までずっと彼にああいう態度を取り続けていましてね。ライバル視というよりも、あれは敵視といっても過言ではないのかもしれません」
「…何か、あったのですか?」
「私にも分かりません。しかしあの二人の仲が良かったという話も聞きませんから、もしかするとハイドがここに来る前に何かあったのかもしれませんね」
「そうですか…」
「…少し落ち着きましたか?」
「…はい、本当にすいませんでした」
「気にしないでください。…授業は中止にしましょう。今日はアイリの世界の話をたくさん聞かせてください。そうそう、文字ももっと教えて頂きたいですね」
「でも」
「いくら落ち着いたとはいえ、その精神状態で新しいことを覚えるのはかなり難しいですよ。明日、落ち着いたら昨日の続きをしましょう」
優しく諭され、私は従うしかなかった。
「そんなに落ち込まなくても良いですよ。昨日のうちにかなり詰め込んでしまいましたから、多少ゆっくりしたところで一向に困りませんよ」
「…そう、ですか」
「さて、エファにお茶を持って来て貰いましょう。今日はアイリが先生役ですね。新しい知識を得られそうで楽しみです」
一変してとても楽しそうにエファにお茶を頼むアベル様。一瞬気遣ってくれているのかと思ったら、どうやら本気で私の世界の話を聞きたいらしい。
ややあってエファがお茶とお菓子を持って来てくれた。
「落ち着かれましたか、アイリ様」
「ごめんなさいエファ、ご迷惑をおかけしました」
ぺこり、と頭を下げると
「無理もありません、アイリ様の世界にないものであれば尚更。…刺激が強いものを見てしまったショックは計り知れませんが、せめてこれでリラックスなさって下さいませ」
優雅な仕草でセッティングをして、エファは部屋を出て行った。
テーブルを見ると、色とりどりのクッキーが可愛いお皿に置かれていた。…甘いもの効果は全世界共通なんだろうか。
アベル様が優雅な手つきでお茶を煎れてくれる。
「すみません、本当は私がやらなくちゃいけないのに」
「気にしないで下さい。こう見えて、お茶を煎れるのは得意なんですよ?」
茶目っ気たっぷりに言いながら、私の前にティーカップを差し出してくれた。
お礼を言って口元にそれを持ってくると、ふんわりと優しい香りがして、それだけでも少し心がほぐれる。
「良い香り…」
「心を落ち着かせる効果があるフレアの花から作ったお茶です。味もなかなかですよ」
口に含むと、すっきりした飲み口の中にアップルティーのような甘さがあり、確かに気持ちがほんわり落ち着くお茶だ。
「お気に召したようですね。頬が緩んでいますよ」
笑いながら指摘され、私は片手で頬を隠す仕草をする。
「このお茶…本当に美味しいです。和みますね」
「こちらのお菓子もどうぞ。エファの手作りなんですが、ちょっとしたものですよ」
言われるままに一口かじってみると、生地に練りこまれたチョコレートの味が口いっぱいに広がり、思わず
「あぁ…美味しい…」
と、口に出してしまっていた。
「エファは時々こうしてお菓子を作ってくれます。私が教えたわけではないので、本を読んで覚えたのでしょうね。面白い事に、同じものを作っても気分によって味が違う時があるんです。彼女はどこまでも人間そのもので素敵ですね」
気分によって味が変わるとか、本当に人間みたいだ。…いや、意思を持っている時点でもう人間なのかもしれない。
「さて、落ち着いたところでアイリの世界のお話を聞かせて下さい。…実はかなり楽しみにしているんです」
「そうですね。…何から話しましょうか?」
結局この日は私の世界について色々と話し、いつもより緩やかに時間が過ぎていった。




