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アキノの婚約


 アキノは父のハルパー侯爵、ゼモン・フォン・ハルパーに呼び出され執務室へとやってきていた。

 一体何の用かと思っていた彼女は、父から告げられた宣告に、言葉を失った。


「アキノ、お前の婚約相手が決まった。婚約相手はルスト・フォン・アストレアだ」


「……」


 自分も十四になり、そろそろそういう結婚相手を決められる時期が来るとは思っていた。

 だがその相手が……まさかあのルストだなんて。


 世界が反転し、自身の足下がガラガラと崩れていくような感覚。

 アキノには思わずその場に崩れそうになる身体を抑えることしかできなかった。


 ルスト・フォン・アストレア。

 ウェスペリア王国の貴族の子女でその名を知らぬ者はいないだろう。


 アストレア家の威光を盾に、悪徳の限りを尽くす傲慢な男。

 彼に泣かされた人間は多く、彼がした悪行は聞いていて思わず眉を顰めてしまうほど。


 このまま行けばそう遠くないうちに廃嫡されるのではないか。

 そんな噂が広がるくらいには悪名の評が広まっている男だ。


「外務大臣であるギムル卿との縁故は、今後のハルパー家が王国で権勢を維持するために何よりも重要だ。よろしく頼んだぞ、アキノ」


「はい……」


 侯爵である父の命令に背くことはできない。

 故にアキノに、受け入れる以外の選択肢は存在していなかった。


 貴族の政略結婚とは多かれ少なかれそのようなものだ。

 好きな人間と結ばれるなどというのは、市井の人間にのみ許されたもの。


 アキノは己の心を押し殺しながら、顔合わせを行うべくアストレア伯爵家領都シレジエンへの道を進むのであった……。



♢♢♢



「お労しや、アキノ様……」


 アストレア伯爵領へ向かう馬車の中、アキノは一人のメイドと向かい合っていた。

 青い髪を短く切り揃え、頭にフリルの付いたカチューシャをつけている彼女の名はイスカ。


 アキノの専属メイドであり、彼女のことを小さな頃から陰になり日向になり支えてくれた忠臣だ。


「イスカ、そう悲観しないで」


 アキノは顔を歪ませながら、悲運を嘆くイスカの手をそっと握る。

 彼女よりも一回りほど年上のイスカは、アキノのことを幼い頃から知っている、いわば姉のような存在だ。

 故に彼女がどれだけ深く悲しんでいるかを、アキノは察することができた。


「とうに覚悟はできているわ。私は誇り高きハルパー家の長女だもの」


「ですが……あんな男のところに嫁いでしまえば一体どうなることか!」


 イスカの言葉に、アキノはそうねと軽く笑った。


 ルスト・フォン・アストレアの前評判を知っているからこそ、正直言って不安はある。

 結婚をした自分は、果たしてどのような目に遭うのか……おそらく、思い描いていたような幸せな家庭を築くことはできないだろう。


 だがそれでも、アキノは嫌だと全てを投げ出して逃げることはない。

 侯爵令嬢としての矜持が責務が、彼女をこの場に縛り付けている。


「どうやらついたようです」


 馬車が止まり、ゆっくりと階段を下りていく。

 するとそこには、既にルスト・フォン・アストレアの姿があった。


 思っていたよりも普通、というのがアキノの第一印象だった。


 悪徳貴族などと言われているので、てっきりもっと人柄が顔に出たような醜悪な顔立ちをしていると思ったのだが……その顔は恐ろしいくらいに整っている。


 どうやらかなり緊張しているらしく、明らかにそわそわとしながらこちらを待っている様子には少年らしさもあり、おやと思ってしまった。


 話をしていても、噂に聞くようなところはまったく見受けられなかった。

 ひょっとして……そんな風に思っていた彼女の考えが確信に変わったのは、メイドのラミィが手にしていた盆を落とした時だ。


 ルストは即座にその場から離れながら、アキノのことを庇ってみせた。


 そしてラミィのことを叱りつけるのではなく、彼女が怪我をしていないかを真っ先に確かめたのである!


 人は咄嗟の動きに、その本性が出るものだ。

 あのような行動は普段から彼女のことを大切に思っていなければ、出ない動きだ。

 自分と同様に使用人を大切にするルストの判断に、アキノは好印象を抱かざるを得なかった。


 それは嫁ぐことになる人のことを知ろうと情報を集め、結果として絶望していたアキノをして、情報の方が間違っているのではないかと思えるほどに。


「無事に済んで良かったわね」


「……そうですね」


 初顔合わせは無事に終わり、想像していたよりもはるかに好印象だったアキノは領都に押さえてある宿で一度ゆっくりとすることにした。


「イスカ、どうかしたの? 何やら真剣に考え込んでいたようだけど……」


 宿で夕食を済ませた段階で、アキノは一度イスカと話をすることにした。

 彼女はルストとの顔合わせが終わってからというもの、何かを考え込んだ様子でずっと真剣な表情をしていたからだ。

 だがその理由は、アキノからすれば想像もつかぬものであった。


「ルスト様についてなのですが……ひょっとしてあの方は、実力を隠していらっしゃるのではないでしょうか?」


「……実力を?」


「一瞬で二人を庇うあの動きは、常人にはできません。そして彼の身のこなしは、ただ放蕩生活を続けている悪徳貴族のそれではありませんでした」


 一見するとただのメイドにしか見えないイスカだが、彼女はただの使用人ではない。

 彼女はアキノの護衛の役目も兼ねており、アキノの戦いの師でもあった。


 現役で侯爵家の諜報部隊の長も務めている彼女は彼女は、聖域を自由に出入りできるほどに高い隠密能力を持っている。

 自分では気付けなかったが、彼女が言うのであれば間違いはないだろう。


 思い返してみると、ルストの動きはあまりにも軽やかだったような気がする。

 いきなりお姫様抱っこをされた衝撃で頭から抜けていたが、たしかにその動作は彼女が目で見て終えぬほどに素早かった。


「でもルスト様が強いだなんて話は、聞いたことがありませんよね」


「はい、強さは領地貴族として何よりも大切なもの。嫡男であるルスト様がそれを隠す必要がございません。けれど彼はそれを隠している……」


「イスカはそこに、何か理由があると思っているのね」


「ご明察の通りです。アキノ様」


 ルストの立ち振る舞いは、巷に聞くものとは大いに違っている。

 そして今日の一件で、彼は強さを隠していることまで判明した。

 その二つの謎に因果関係を結びつけるのは、至極当然のことであった。


「それがのっぴきならぬ事情故のことであれば、何一つ問題はありません。ですが万が一にもそれが不埒な理由であるのなら……婚約者として、それを知る権利があるはずです。場合によっては、婚約破棄をする十分な理由になるかと」


「婚約、破棄……」


 イスカの言葉に、アキノは動揺している自分に気付いた。


 たしかに自分は今回の婚約に乗り気ではなかった。

 だがその気持ちが変わり始めていることに、今になってようやく気付いたのだ。


 人の良さそうな態度やメイドへの気遣い、そして自分に対する……とそこまで考えて、アキノはボッと顔を真っ赤に染める。


 侯爵令嬢として固い貞操観念を持つ彼女は、あんな風に誰かに触れることは今まで一度としてなかった。


 女の自分とは違う、固く筋張った身体つき。

 思い出すとドキリと胸が高鳴り、愛読書である恋愛小説のワンシーンが頭を過る。

 だが不安そうにこちらを見つめるイスカを見て、アキノはハッとすぐに現実世界に帰ってきた。


「……そうね。婚約者が何かを隠しているというのなら、やはり結婚する前にきちんと知っておきたいという気持ちはあるわ」


「よければ私が探って参りましょうか?」


「隠れて探ろうとするのは、あまり褒められたものではないような気がするけれど……」


「隠し事をしているのも褒められたことではございません。ここはおあいこということで良いのではないですか?」


 もしルストが何か重大なことを隠しているのであれば、その秘密を知っておきたい。

 なぜ知りたいのか、その理由は未だ自分でも判然としてはいなかったが……アキノはとにかく、そう強く思ったのだ。


「それでしたら、私が探りましょう」


 どのみち情報収集はしようとは思っていたのだ。

 アキノは水魔法を展開させる。

 彼女は水魔法に関して言えば、既にイスカを上回るほどの天才。


 彼女は目を閉じ、精神を集中させる。 

 体内にある魔力を腹の辺りに押しとどめ、それを胸、首、そして己の顔へと引き上げ、淀むことなく流していく。


 アキノ・フォン・ハルパー。

 後に勇者パーティーの一員となる彼女の持つ水魔法の才は――同年代で右に出る者のいない、天才である。

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