春7
ルキウスへの手紙を書いても良いと言われた。あくまでもレオニウスからの私信に混ぜる形なので枚数はなるべく少なくする必要はあるが、王太子の元へ直接届けられるとのことで、検閲の心配もなく、内容は自由に書けるという。
自由。自由。辺境に来てから急に与えられた、たくさんの自由に、マルケリアは時々溺れそうになってしまう。
「姫様、お夕食に魔物素材を出しても大丈夫ですか?」
そんなマルケリアを現実に戻してくれるのは、最近ずっとそばにいてくれる、マイペースな侍女ラヴィアだ。
「そろそろ『鹿もどき』の熟成が終わるそうで、食べ頃なんですよ。ただ、姫様はこれまで魔物素材に縁がなかっただろうから、一応訊いておいたほうがいいとエヴァルドさんが言っていたので」
ルキウスへの手紙に何を書いたらいいのかパニックになっていたところに、のんびりとした口調で話しかけられて、マルケリアはハッと我に返った。
「ええと、『鹿もどき』?」
「正式な名前は長ったらしくて全然違うんですけど、辺境では鹿に似てるのでそう呼んでます。肉質はもう少し牛に近いですね。本当は秋が一番脂が乗っているんですが、春の木の芽を食べて育つ小さな個体は、柔らかくて癖がないので特に美味しいですよ」
「鹿に似ているというと、フェラケルウス種かしら? 大きな角と、滑らかな皮が王家に献上されている……」
「ああ、確かそんな感じです。確かに、前に商人がそんな感じで呼んでましたね」
フェラケルウス種の幼獣と言えば、王都では一部の好事家と美食家が取り寄せて食べているという、幻の食材だ。臭みのないサシの入った柔らかい肉は、じっくりローストして食べると口の中で蕩けると聞いた覚えがある。
「食べられそうですか? 魔物に抵抗があるようでしたら、他のものに変えることもできるそうです。この時期だと、まだ苔しか食べてない若い鱒とかも、ご用意できると言ってました」
それほど食いしん坊というわけでもなかったはずが、思わず想像して唾を飲み込んでしまう。辺境に来てから、ご飯がとても美味しい。人目を気にせず一人で食べているせいか、それとも『自由』が絶妙な調味料になっているのか。
王都の屋敷でも一人きりの食卓だったけれど、今はラヴィアが必ずそばで給仕してくれることも大きいだろう。王都では、ルキウス以外の信頼できる大人と縁が薄かった。
「どちらも、美味しそうで迷ってしまうわ。魔物素材には抵抗は特にありません。それ以外にも、特別辛いもの以外なら特に好き嫌いはないわ」
「ああ〜、たまに贅沢のつもりで胡椒効かせすぎると、辛くなりますよね。わかりました。では、今夜は予定通り『鹿もどき』のローストで、鱒は明日の朝食に出してもらうことにします。今夜は期待してお待ちくださいね」
笑顔でそう言うと、ラヴィアは部屋を出て行った。部屋に一人になると、マルケリアは再び手紙に何を書くかで頭を悩ませ始める。
レオニウスは明後日までにと言っていた。書くのは実質、明日一日しかないということだ。何を書けばいいだろう。新しい婚約者がいるルキウスに、いくら検閲がないからと言って恋心を綴る勇気は持てない。辺境についてからのことを書くしかない。
辺境で知ったこと。辺境の不思議な魔法のこと。魔物を食べたことも報告したら面白がるかもしれない。好奇心が旺盛な方なのだ。だから、マルケリアが時々突拍子もないことを言い出しても、驚いてから面白がって、それを政策に取り込んだりといったことをやっていた。
マルケリアが社交のためにあらすじを用意してもらっていた恋愛小説にも、時々興味を示していた。そしてそれに載っているような格好をつけたプロポーズを「正真正銘の、本物の王子様からのプロポーズだよ」などと言って、真似ては笑っていた。
こんなに細い糸だというのに、辺境へ到着するまでの十日間ですっかり諦めたはずの想いが、簡単に蘇ってしまう。目元に滲んだ涙を、ギュッと目を瞑ってやり過ごす。
キラキラと輝く王冠のような金髪と、春の木の芽のような新緑の瞳。こうして思い出すのは笑顔ばかりで——最後に会った時は、あんなに苦渋に満ちていたのに。
王族なのに、頭を下げていた姿を思い出して、胸の奥がうっすら冷える。思い出に浸る高揚から醒めれば、そこは王都から遠い辺境で、ルキウスの声を聞くことは二度とないのかもしれないという現実に立ち戻る。
ルキウスはまだマルケリアを諦めていないと、レオニウスは言っていた。しかし、マルケリアはロザリアがあっという間に民衆の心を掴み、議会の支持を得るのを目の当たりにしたのだ。あの熱狂が、果たして一年で覚めることなど、本当にあるのだろうか。
手紙には、元気にやっていると書こう。レオニウスが居心地良くしてくれていること、その感謝。それから辺境で食べた美味しいもの。そんな、当たり障りのない明るい話題だけでいい。
婚約者がいる相手と心を通わせるのは、とても恐ろしいことだ。心のうちに恋心が溢れていても、友人のような距離で接するべきだ。王太子としてのルキウスの立場を守るためにも。
そうだ。もう、マルケリアはルキウスを守ることができない場所にいる。名前ばかりのものとはいえ、辺境伯の妻となった今、その身も立場も、守ってあげられない。それならせめて、読み物として楽しい内容か、何か役に立つ情報を書くべきだ。それなら、例え誰かに見られても言い訳が効く。
「滞在記のようなもの」
そうだ。それがいい。辺境を大事に思っていて、好奇心旺盛なあの方なら、きっと辺境の暮らしにも興味があるだろう。ルキウスが信頼しているレオニウスのことを書くのもいい。彼が、休みの日に氷を大量生産していた出来事など、きっと楽しく読むだろう。
そう決めると、マルケリアは机の引き出しを開けた。すでに引き出しの中に、便箋と封筒も入っていたのを確認してあった。王都に友人がいるわけでもないのに、こんなもの使うかしらと思っていたが、レオニウスの中では最初からこうする手筈だったのだと、今ならわかる。
便箋を取り出しかけて、少し考えてからその下にあった日記帳のようなものを手に取った。いきなり手紙を書くより、先に何を書くか箇条書きにして、整理したほうがよさそうだ。
枚数は勝手に二枚までと決めた。レオニウスにも、迷惑はかけたくない。あくまで、辺境伯の妻からの同封の手紙、という体裁は崩さないように。
「姫様。そろそろ、お食事の支度をしてもよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
帰ってきたラヴィアに声をかけられて、マルケリアは取り出した日記帳をいったん机の上に置いた。
フェラケルウス種の幼獣の肉など、王宮でも食べた覚えのないものだ。きっと、ルキウスも興味があるだろう。
しっかり味わって、それを手紙に書こう。美食家が手記に書くように美味しそうに。そう思うと、辺境での食事がより楽しみになった。
「今夜は豪華ですよ。『鹿もどき』のローストだけじゃなくて、デザートに、木苺のタルトがつきます。レオニウス様が、森からの帰り道で群生を見つけたそうで、たっぷりあるんです」
そう言えば、昼間にもレオニウスが山盛り積んで摘んでいた。案外、好物なのかもしれない。ルキウスも苺が好きだった。特に大粒の献上物を、大事に食べていたのを思い出す。
「楽しみだわ」
胸の内でいまだに燃える焔を隠して、ラヴィアに微笑む。食べ終わったら、書きたいことを整理して、明日は一日かけて手紙を書こう。王都に残るあの人に、楽しんでもらえるような、そんな手紙を。




