春6
「手の空いている時にお会いしたいと、申し上げたはずですが……」
マルケリアは困惑したように、対面に座る黒髪の美丈夫を眺めた。レオニウスは、机の上の皿に盛られた木苺を摘みながら、数分おきに桶を持って近付いて来る料理人やメイドに向けて、『水凍れ』と唱えて大きな氷の塊を生み出している。
「帰還翌日の今日が私の休養日です。今日を逃すと、次は出発前の午後しか時間が取れません。『水凍れ』」
ゴロン、と音がして、大きな氷の塊が料理人の持つ桶の中に転がった。
「そろそろ桶の水がなくなるぞ」
レオニウスが言うと、氷を受け取った料理人がレオニウスの足元を覗き込む。
「はい、今すぐ水をお持ちします」
足元に置かれた大きな桶にはたっぷりの水が入っていたはずだが、いつの間にかかなりの量が減っている。辺境の氷の魔法は初めて見たが、王都の魔法のように無から氷を生むわけではないらしい。
「さっきから全然休んでおられないではありませんか……それに、そんなに続けて呪文を唱えていて、魔力は大丈夫なのですか?」
「あ、すみません。いつものことなので、気になさらないでいただきたい。遠征から魔物の肉をたくさん持ち帰ったので、街に分配する際の保存のために氷を用意しなければならなくて。魔力のほうも……幸い私は魔力量も多いほうですし、生まれつき氷魔法に適性があるので、さほど魔力の消費も激しくはないのです」
「他の者たちも氷を出してはいますが、レオニウス様ほど大きな氷を出せる方は、辺境でもそうはいないんですよ」
マルケリアの前に置かれたカップに紅茶のお代わりを注ぎながら、どこか自慢げにラヴィアが言う。
「その魔法、王都式ではありませんよね」
聞き覚えのない呪文にマルケリアがそう言うと、レオニウスは軽く微笑んで頷いた。マルケリアの知っている氷魔法は、『水よ』から始まるものだ。
「わかりますか。これは、北の辺境に代々の口伝で残っている、古代魔法の残滓のようなものです。王都式のように細かい制御はできませんが、代わりに短い呪文でも発現します。威力は個人差があるのが難点ですが、慣れると一番早くて確実です」
「私も、小さな氷なら作れるんですがね。『水凍れ』」
ラヴィアが唱えると、一口大の小さな氷が、空いているカップの中にコロンと転がり出た。
「個人でこんなに効果が変わるなんて、王都の魔法では考えられないわ」
王都式の魔法は、同じ呪文を唱えれば毎回同じ量の魔力を消費して、基本的に誰が唱えても全く同じ効果を生み出す。そのために、研究し尽くされているものだ。例外は、聖女の使う治癒魔法くらいである。誰よりも少ない消費魔力で効果の高い治癒を施せるからこそ、ロザリアは聖女と呼ばれている。
「ああ、王都の魔法と言えば、私の留守中、ラヴィアに軽量の魔法を教えてくださったとか。ありがとうございます。他の使用人たちも喜んでいると、エヴァルドから聞きました」
「え、いえ。そんな、大したことでは」
「大したことですよ。私など、王都で三年学園に通っていながら、生活魔法の類はほとんど持ち帰れませんでした」
マルケリアが慌ててそう言うと、レオニウスは真剣な表情でそれを訂正した。
「教科書くらいは持ち帰れると思っていたのですが、思っていた以上に呪文の管理が厳しくて。便利な魔法をたくさん持ち帰るからと言って王都の学園に通わせてもらったのに、初歩の灯りの魔法もうろ覚えの状態で持ち帰ることになり、エヴァルドには呆れられ、父には笑われました」
「お父様……前辺境伯ですね。急なご病気で亡くなられたとか……あの、私は書類で読んだだけなのですが、ルキウス様……王太子殿下がたいそう気にされていたので」
「そうですね。もう二年になりますか。なんだか、過ぎてみるとあっという間ですね。もっと色々と習っておくべきだったと、今でも悔やんでいます。それでも、現場は回さないとなりませんから。エヴァルドにも、家令のカシアンにも、とても助けられています」
悲しむと言うよりも、懐かしむような口調でレオニウスが言うのを、マルケリアはただ聞くことしかできなかった。どんな慰めの言葉も、偽善に聞こえてしまいそうで口にはできない。
そこへまたメイドと料理人が水を運んできて、次々と足元の桶に注ぐ。彼らは空になった桶を手に、レオニウスの横に並んだ。
「失礼。『水凍れ』」
ゴロン、と氷が落ちる。それを何度か繰り返して、レオニウスはまた、皿の上の木苺を口に放り込んだ。シャリ、と何かが砕ける音がする。よく見ると、レオニウスの周囲に冷気が漂い、吐く息が白く凍りついているようだった。
「少し冷え過ぎたな。ラヴィア、熱い紅茶をくれ」
レオニウスがそう言うと、すぐにラヴィアが手にしていたカップから氷のかけらを落として、そこに紅茶を注いだ。手渡されたそれを、レオニウスは少しの間手のひらで包み込んで、手に熱を移すようにしてから啜る。
「姫様も、そちら冷めてきてますよね。淹れ直しましょうか?」
ラヴィアに尋ねられて、手元を見る。すでに湯気は立っていなかったが、マルケリアは首を振った。
「大丈夫よ。今日は少し暑いくらいですもの。——レオニウス様の周りだけは、冬のようですけれど」
気遣わしげにレオニウスを見つめる。視線に気がついたのか、レオニウスは安心させるように微笑んだ。
「辺境の氷魔法を使い続けると、僅かずつ周囲にまで範囲が及んでしまうのが玉に瑕ですね。王都の魔法なら、こういう事象は起こらないんですが」
「制御のない魔法を、恐ろしいとは思わないのですか?」
「完全に、安全に制御された王都の魔法だけで育つと、確かにそう感じるでしょうね。けれども、辺境では皆、子供の頃から魔力を適当な言葉でいじくり回すのに慣れているので、限度を感覚で覚えていきます。だから、あなたが思うほど危険ではないのですよ」
「そんなことを言って。子供の頃、腕を凍らせて泣いていたじゃないですか。奥様は悲鳴を上げて、旦那様からはめちゃくちゃ怒られましたよね」
ラヴィアが、意地の悪い顔で言う。レオニウスはムッとしたように、小さく唇を尖らせた。
「いつまでも小さな子供の頃のことを言うな」
初夜の時にも思ったが、ラヴィアとレオニウスの距離が予想以上に近い。軽口を叩き合う感じが、マルケリアの知らない兄妹のようだった。マルケリアが目を白黒させて見守っていると、レオニウスが少し頬を赤らめて、照れたように頬を軽く擦った。
「すみません。乳兄弟で一番信用できる侍女なのでラヴィアをつけましたが、あなたにもこんな生意気な口を利いてはいませんよね?」
「え、いえ! 毎日、とても良くしてもらっています」
拗ねたような半目でラヴィアを睨みながら訊かれて、マルケリアは慌てて答える。マイペースなところはあるが、それを嫌なふうに感じさせない、とても気持ちの良い女性だ。毎日、マルケリアのことを、心から考えてくれている。
「それならいいんですが」
そう言いながらラヴィアのほうへ空のカップを突き出して、お代わりを要求する。ラヴィアも気にした様子もなく、そこへマルケリアにするよりも雑に紅茶を注ぐ。
「ああ、こんな魔法談義をしている場合ではなかった。マルケリア様、明後日までにお手紙を書くことはできますか?」
「手紙、ですか?」
マルケリアがキョトンとして言うと、レオニウスは真顔で頷いた。先ほどまでの軽快な調子ではなく、真剣な表情だ。
「はい。我が領から、三日後に王都へ向けて今年初めての魔物素材を積んだ商隊が出発します。魔物素材は一年を通じて、何度も王宮に献上されます。その際、いつも私から王太子殿下に手紙を送るのですが、その中にマルケリア様からの手紙を入れて差し上げたいと考えています。帰りには、王太子殿下からの返事を受け取る手筈です」
唐突にルキウスの話題が出て、マルケリアは息を呑んだ。辺境に来て一ヶ月半ほど。これまで毎日、お守りのようになっていた紙片を枕元に置いて、たまに読み返していたが、あれがルキウスからの最後の思いやりなのだと思っていた。
「そんな……だって、ルキウス様——王太子殿下は、もうロザリアと婚約したではないですか」
自然と、声は震え、潜められた。未だに、うっかりと名前で呼んでしまう癖が抜けない自分が、あまりにも強欲で情けない。
「ええ。でも、王太子殿下は、最後まであなたのことを諦めきれませんでした。だから、当家があなたをお預かりすることになったのです」
「まさか、本気で私を迎えに来るとお考えなのですか?」
「少なくとも、王太子殿下と私はそのつもりでおります。あなたへの愛情も、もちろんあるのでしょう。けれど、それだけではありません。聞けば、聖女様は、学園でもたいそう勉強嫌いでいらっしゃるとか。とても、王太子妃教育についていける方ではないと、王太子殿下はお考えです」
「それは……確かにそうだけれど、でも、聖女としてあれだけの人気があるのですもの。民と議会が納得しなければ」
「そのために、一年は必要だと王太子殿下は手紙に書かれていました。さすがに証拠を残すわけにはいかないので、もう燃やしてしまいましたが」
「そんな話を、ここでして大丈夫なのですか?」
レオニウスが特別声を張るわけではないが、潜めもしない普通の声音で言うのに、マルケリアは周囲を見回した。王家の婚約をどうこうしようなんて、誰かに聞かれでもしたら、不敬と言われてもおかしくない話題だ。
「中庭には、信頼する者しか入れませんので、聞かれても大丈夫ですよ。洗濯場に、最近王都生まれの鼠が入り込んだという報告は受けましたが、今はあえて泳がせています」
「本気……なのですか?」
「あなたを受け入れると決めた時から、私は本気で王太子殿下を応援すると決めています。もちろん、あなたのお気持ちが最優先ですが。何よりもあなたを守ることを優先してくれと、王太子殿下からも頼まれていますので」
「ルキ……王太子殿下が、そのようなことを……」
呆然と呟く。もう切れたと思っていた糸が、まだ細く繋がっていた。




