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仮初の一年  作者: 肺魚


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5/17

春5

 その日は午後から雨が降っていた。いつもはマルケリアがラヴィアを伴い中庭でお茶をしている間に、他のメイドたちが部屋の掃除をするらしいのだが、今日はラヴィアが掃除するのを室内のテーブルセットから眺めることになった。マルケリアが、他のメイドたちにまだ心を開いていないから、部屋に立ち入るのを見せないように気を遣ってくれているのだ。

 ラヴィアは、先ほどから片手で持てる小さな桶に水を汲んで、何度も往復して部屋に置かれた大きな桶をいっぱいにしようとしているようだった。

「ラヴィア、そんなに一度にたくさんの水を使うの?」

 恋愛小説を読む手を止めて、話しかける。

「雑巾を洗うたびに井戸まで戻るのが面倒なので、先にまとめて持ってきてしまおうとしているだけです。こうすれば、使い終わった水を窓から捨てるだけで済みますからね」

 ——横着者なもので。そう言うラヴィアを見て、マルケリアは首を傾げる。

「それなら、片手桶ではなくて、もっと大きな桶で運んだほうが、回数が少なく済むのではなくて?」

「確かに辺境の人間は力持ちですし、私もこの倍の量の桶の水を持ち上げることはできますが、片手を空けられないと途中の扉を開けられないでしょう? さすがに片手で持つのはこの大きさが限度です」

「あら? ラヴィアは軽量魔法を使わないの? 灯火の魔法が使えるのなら、魔力は足りるはずよ」

 今度はラヴィアが首を傾げた。

「軽量魔法って、あの騎士たちが毎日訓練で練習してるあれですか?」

「騎士たちが?」

「ええ、剣を『軽く(レーヴィ)!』、『重く(ガーヴィ)!』ってやつですよね?」

 ラヴィアはそう言って、軽く(レーヴィ)、で桶をひょいと持ち上げ、重く(ガーヴィ)、で桶を床に置いた。とてもこの程度の大きさの桶が立てるようなものではない、重たいゴッという音がする。

「ちょっと待って。それは私の知ってる魔法とは違うものだわ。今の……魔法よね?」

「はい、剣を振り上げる時に軽く、振り下ろして敵に当たった瞬間を重くする、辺境の騎士たちが使う魔法です。毎日練習している声が聞こえるので、覚えてしまいました。でも、瞬間的なものなので、あまり役には立ちませんよ?」

 マルケリアはラヴィアをじっくりと眺めた。今の感じからして、ラヴィアは魔法自体は充分使えている。ただ、辺境の魔法は、マルケリアが馴染んでいる王都式の魔法とはずいぶん違うもののようだ。

 毎晩の灯りを思い出す。王都の灯り魔法に比べて均一感がなく、本物の蝋燭の炎のようにゆらゆらと揺れる灯り魔法。

 少し悩んで、それでもマルケリアはラヴィアに話しかけた。法律上、問題ないことはわかっていたからだ。

「それとは違う、王都の軽量魔法があるの。貴族の屋敷で働くものなら、大抵は知ってる、メイドでも教わる魔法よ。持つ物の重さを半減するものなの」

「王都の魔法は持ち出し禁止なのでは? レオニウス様ですら、魔物討伐用に王家から賜った氷魔法以外では、学園の教科書に載っていた、初歩の灯りの魔法を持ち帰るのが精一杯だったと聞いています」

 ラヴィアが焦った様子で言う。自分の不便が改善されることよりも、マルケリアの立場が悪くなることを心配してくれているのだ。そう思うと、胸が温かくなった。

「確かに、同じ軽量の魔法でも一部は軍事機密として制限されているわ。でも、私が知っているのは、貴族の屋敷で働くものなら知っていて当然の、十分も経てば効果が切れる魔法だから大丈夫」

 マルケリア自身、習ったのではなく身近な屋敷のメイドたちや、王宮の侍女などが繰り返し使ってるのを見て、何となく覚えてしまったものだ。確かに王都の魔法は持ち出し禁止だが、この程度の生活魔法は、国のどの領地の屋敷でも使われていると知っている。

「魔力を込めながら『持つ物を軽く、持ち上げさせよ』、やってみて?」

『持つ物を軽く、持ち上げさせよ』

 ラヴィアは恐る恐ると言った様子で魔力を込めて呪文を口にし、桶を持ち上げる。次の瞬間、ハッとした表情でマルケリアを見た。

「軽い! 軽いです! 姫様!」

「十分くらいは、保つと思うわ」

「すごい! すごい! これって、他の侍女や庭師たちに教えても大丈夫ですか?」

「この屋敷の中で使う分には、法律上問題はないはずよ」

「姫様、ありがとうございます! 皆きっと喜びます!」

 大袈裟なくらいに喜ぶラヴィアに、マルケリアのほうが嬉しくなってくる。こんなふうに、マルケリアのちょっとした提案や意見を、喜ばれることなど王都ではほとんどなかった。できて当然。そんな雰囲気だった。

 マルケリアが口にするちょっとした疑問や提案を、それはすごい発見だよと褒めてくれるのは、王太子であるルキウスただ一人。マルケリアの王都での評判は、それなりに優秀だけど地味で控えめな婚約者。それだけだった。

 でも、辺境(ここ)では、こんなささやかな魔法を一つ教えただけで、こんなに喜んでもらえる。誰かを笑顔にすることがこんなに気持ちの良いものだと、マルケリアは久しぶりに思い出した。



「火の魔法?」

「ええ。料理人が、ご存知ないかって」

 軽量化の魔法を教えてから数日後。ラヴィアにそう尋ねられて、マルケリアは首を傾げた。

「王都では、調理の際に繊細な火力調整の魔法を使うと聞いたことがあるらしくて、王都のレシピを試せるのなら覚えたいと」

「ごめんなさい。私、厨房にはほとんど足を運んだことがなくて、そういった魔法は覚えていないわ」

 確かに、王都の料理人が細かい火加減の調整を魔法で制御しているのはマルケリアも知っている。しかし、実際にその魔法を使っているところは見た覚えがなく、呪文も当然覚えてはいない。

「役に立たなくてごめんなさい……」

 肩を落としてそう言うと、ラヴィアは慌てて首を振った。

「いえ! とんでもないことです! こちらこそ、図々しく何でも聞いてすみません」

「もっと身近なものに興味を持ってくれば良かったと、後悔しているわ」

 マルケリアがなおもそう言うと、ラヴィアはますます頭を下げた。

「本当にこちらこそ申し訳ありません。軽量の魔法だけでも、この屋敷の者たち皆、本当にありがたく思っています。灯り魔法もうろ覚えだったレオニウス様には、到底できないことです」

「あの灯り魔法の制御部分が抜けているのって、わざとではなかったの?」

 ずっと気になっていたマルケリアがそう言うと、ラヴィアはううん、と唸った。

「最初はもっとちゃんとした長い呪文でしたけど、だんだん皆で省略を始めて……一応灯りはつくもので、結局あれに落ち着いたと言うか。辺境の魔法の呪文は、どれも短い単語だけのものなので」

「王都では、儀式の時には本物の蝋燭やランタンをあえて使うこともあるから、ああいう雰囲気の灯りを求める人には人気が出るかもしれないわね。けれども、軽量の魔法は省略しないほうがいいと思うわ。王都の魔法を勝手にいじると、どんな危険があるかわからないから」

「はい、それはきちんと皆に申し渡しておきます。姫様のご厚意ですから、それで事故など起こしたら私たちがレオニウス様に叱られます」

「そういえば、もうすぐ一ヶ月経つけれど、レオニウス様はご無事かしら? いつごろお戻りになるの?」

「週に一度は魔物素材の納入と砦への物資の運び入れで、小隊が行き来しておりますが、お元気だそうです。今回はあと一週間もすれば、一度屋敷に戻られると聞いています」

「今回は?」

「ええ、繁殖期の春の間は、例年二回に分けて長い遠征が組まれます。今回のが一度目で、それも姫様を迎えるのに少し遅らせたので、その分長めになっています。一度戻られて、最低限の書類の整理や素材の仕分けが終わったら、また一ヶ月ほど遠征される予定です」

 では、初夜の晩があんなに慌ただしかったのは、本来ならもうとっくに遠征に出ている時期だったからなのか。王太子からの急な輿入れの命令に、辺境が応えたことになる。

「会う機会はありそうかしら」

「姫様が望まれるのなら、レオニウス様は時間を作られると思います」

 初夜の晩のあの慌ただしい短い時間しか、会ったことのない相手。でも、今ならもっと落ち着いて、話を聞けるとマルケリアは思う。本当に、自分を王都に戻すつもりなのかということも、王太子が何と言ってマルケリアを預けたのかということも。

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