春4
「あくまで『冷遇』と見せかけるために、屋敷の外や、外から見える表庭に出ていただくことは難しいですが、中庭や図書室などでしたら、自由に過ごしていただいて構いません」
ラヴィアに呼んでもらった執事——エヴァルドは、マルケリアにそう言った。黒髪と、灰色の瞳をしたマルケリアの父よりも少し若く見える中年男性だ。レオニウスも艶やかな黒髪だし、屋敷で見かけた使用人たちの髪色は全体的に、黒や濃い茶色がほとんどで、銀髪の自分だけが一人、異邦人のように感じられた。
「自由に……」
鸚鵡返しのように呟いて、途方に暮れる。マルケリアは、西の大国ローデリオン皇国の皇室の血を継ぐ母親の血筋を見込まれ、七歳の時に王太子の婚約者となってからは、ずっと王太子妃教育に追われて生きてきた。十二の頃からは、王妃と王太子の政策にも参加してきたため、趣味らしい趣味を持つ暇などなかった。
急に自由に過ごして良いと言われても、何をすれば良いのかさっぱり思いつかない。王太子妃としての立場を失ったら空っぽな自分に、打ちのめされそうな気持ちになった。
「王都で流行りの女性向けの書籍は、レオニウス様の采配で今取り寄せている最中なんです。今は、古典的なものしかお部屋にご用意できていないのですが、もう少し待ってくれれば、巷で流行りの恋愛小説も揃いますよ」
「そういえば、恋愛小説なんてほとんど読んだ覚えがないわ」
小説よりは資料や、勉強のための本ばかりを読んできた。社交のために話題になっている書籍のあらすじをまとめて読んだり、王宮の侍女から解説されて知識として得ることはしてきたけれど、子供の頃の絵本以来、娯楽のために本を読んだ記憶はない。
「刺繍やレース編みなどされるのでしたら、すぐにご用意することができます」
「刺繍……も、最低限しかやったことがないわね」
婚約者に贈るための王家の紋章を刺したハンカチを、ほんの数枚。それも、まだ十五歳くらいの時に王太子妃教育の教養の一部としてやって、それっきりだ。
つくづく、自分のこれまでの人生は王太子妃になるためだけのものだったのだと思い知る。
「さすがに乗馬などはさせてあげられないのですが……。あと、観劇も、夏になるまで旅の一座は辺境には訪れないので」
「いえ、大丈夫よ。今まで自由に過ごせる機会があまりなくって、咄嗟に思いつけなくて……ごめんなさいね。何をすればいいのか、決められないの」
気後れしながらそう言うと、ラヴィアは柔らかい表情で微笑んだ。
「では、少しずつ試していきましょう。それで何かやりたいことを思いついたら、教えてください。まずはお庭をお散歩されてみてはいかがでしょう? 春の中庭は、ミモザやアーモンド、林檎の花が咲いていてなかなか素敵ですよ」
「そう、ね。そうしてみようかしら。ここに来るまで、ずっと馬車の中で座っていたものだから、歩くのは身体にも良いと思うわ」
「では、日傘をお持ちしますね! すぐに戻ります」
「私も、いったん下がらせていただきます。何かまたご希望や疑問がありましたら、いつでもお呼びください。旦那様が不在の間は、マルケリア様がこの屋敷で一番の貴人となります。決して不自由のないようにと言いつかっておりますので」
隣のドレスルームに行ったラヴィアを見送ると、エヴァルドが一礼して退室する。マルケリアはまだ馴染みの薄い部屋で、急に与えられた自由な時間にふわふわと落ち着かない気持ちでいた。
中庭の散歩から始まって、マルケリアは毎日の自由な時間を持て余しつつ、色々なことを始めてみることにした。
しかし、いきなりこれまでしてこなかったことを始めるのはさすがに勇気がいったので、まずはこれまでと似たことから始めてみることにした。まず、図書室で辺境についての本や資料を読もうと思ったのだ。
王都にいた頃、商会の権勢が強い議会は、すでに王家の意向よりも優先されることがあった。王家の権勢は薄れつつあり、財を持つ庶民の意見が少しずつ政治に食い込んできていた。王太子は聖女と結ばれたほうがいいという理由での、マルケリアの婚約解消もその一つだ。
そんな中で、唯一議会が口出しできないのが、王家にのみ忠誠を誓う北の辺境の自治についてだった。北の辺境は魔物の湧く『森』から王国の土地を守るための城塞都市である。必要な数の魔物を間引きし、その素材を商会を通じて流し、また王家へ献上するために存在している。献上される魔物素材は王家にとって貴重な収入源でもあったため、王家は北の辺境をとても丁寧に扱っていた。
そういった知識は、政務に関わっていたマルケリアにも当然ある。その年、どのような素材が王家に献上されたのか。それらがどのくらいの金額で売られたのか、または家臣へ下賜されたのか、他国へ寄贈されたのか。そういった記録には、目を通してきた。
けれども、北の辺境の暮らしや文化などについては、王都では知る由もなかったし、調べようとしたこともなかった。
「辺境の外には出ない魔物素材もあるのね」
エヴァルドに頼んで出してきてもらった資料を読みながら、そう呟く。去年採取した魔物素材の一覧だ。その内に、見覚えのない魔物素材が、いくつもあった。
「特別に防御力が高かったり、火などに強い魔物素材は、魔物の討伐を一手に行う辺境が優先的に手に入れることを、王家から許されております」
何気なく口にした疑問に、エヴァルドが答える。
「そういった理由ならば納得です。ポーションの材料なども、半分以上は手元に残されているのね」
「辺境にも神殿はありますが、外壁の外の遠征にまでは神官もついてこられませんので、そうなると騎士たちはポーション頼りですから」
「なるほど」
「姫様、そんなレオニウス様が読まれるような資料読んで、本当に楽しいんですか?」
ラヴィアの呆れ交じりの声に、マルケリアは少し苦笑してみせた。
「楽しいというか……興味深いわ。王都では手に入らない資料だし、私は北の辺境には詳しくないから、少しでも知っておきたいの。これから住むのだもの。それに、ラヴィアが用意してくれた、王都で流行りの恋愛小説も読んでいるわ。とても情熱的で、あらすじで読むのとは全然違うわよね」
「命懸けで王女殿下をお守りする騎士様、格好良いですよね!」
「現実には、王女ともなれば最低でも五人は騎士がつくから、あんなふうに二人きりにはならないと思うけれどね」
「姫様、そんな夢のないことは言わないでください」
一週間も経つと、ラヴィアとエヴァルドと話すことにも慣れてきた。使用人との気安い会話は、王都ではなかったものだ。王都の屋敷では、公爵の関心の薄い前妻の娘のマルケリアは、腫れ物を触るように扱われていた。専任の侍女も決まっていなくて、手の空いたものが変わるがわる世話をするといった具合で、親しくなる余地がなかったのだ。
「はい、そろそろ美容のお時間ですよ。その後は中庭でお茶です」
ラヴィアは、マルケリアが放っておくとずっと図書室で本や資料を読み耽るため、時間割のようなものを編み出していた。辺境では見たこともないせっかくの美しい銀髪を、もっと梳りたい。肌や爪のお手入れだってしたい。そう言って、マルケリアを振り回す。
けれども、マルケリアはそうされるのがちっとも嫌ではなかった。ラヴィアの明るさと、そして好意が嘘ではないときちんと伝わるからだった。
お風呂に入れられて全身丹念に磨かれ、うっとりするような手つきで香油や化粧水、美容液を肌に擦り込まれる。髪も丁寧に梳られ、器用な手つきで優美に編み込まれた。
たっぷり眠る生活が良いのか、マッサージが効いたのか、辺境へ来た直後よりも、顔色が良くなったと言われる。髪の艶も、指通りも、前より良くなった気がした。
服も、相変わらずコルセットのないものは心許ないが、既製服ばかりでと言いながらも、裾や袖などは着替えるたびにきちんと直されているため、どれも身体にぴったりだ。屋敷の者が手掛けたのか、気がつくと刺繍が増えていたりもする。
王都にはなかった人の温もりに、辺境は溢れている。来たばかりの時の心細さは、今はもう感じなかった。守られている、と思う。
けれども、夜眠る時一人になると、お守りのように、ルキウスが書いた走り書きの紙片を眺める癖はなくならなかった。




