春3
ふと、意識が浮かび上がる。デーデーポッポと、低く聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえていた。
カーテン越しの薄明かりに、手が布団の上を彷徨う。ベッドカバーの暖かい色味のパッチワークキルトは、丁寧に作られた温もりを感じさせた。
——ここは、王都のあの、豪華だけれど人の温もりがまるでない、殺風景な自室ではない。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を二つに切り分けていた。ベッドの上に起き上がって、改めて室内を眺める。ベッドサイドの小さなテーブルには、水差しと木のカップ。一晩、良い香りを放っていた草の束は、今はくたりと萎れている。
昨晩の印象よりも、室内は物に溢れていた。狭いわけではないが広くもない部屋に、きっちりと様々なものが詰め込まれている。昨夜は気が付かなかったが、作り付けの本棚には昔から人気の長い恋愛小説や冒険小説が収められ、華奢な鏡台の前には、色々な化粧品も置かれていた。暖かな色合いのベッドカバーといい、そこかしこに、少しでも居心地を良くしようと工夫した形跡がある。
スリッパに足を入れて、窓に近付く。分厚いカーテンを少し寄せて窓の外を見ると、中庭に面しているようで陽当たりも良く、春の草花が溢れる光景が広がっていた。
「『冷遇』するって言っていたわよね?」
部屋の場所こそ屋敷の端のほうだが、どこまでもマルケリアの心を慰めるように、部屋は気遣いに満ちている。昨夜は呆然として聞き流していたレオニウスの言葉を、懸命に思い出す。
妻としてではなく、あくまで王太子からお預かりした大切なお客様として遇する。確かにそう言っていた。
マルケリアの予想したように白い結婚ではあるのだろう。けれども、ルキウスからのメモを信じるのならば、これは『冷遇』と言うよりもきっと『保護』の意味合いが強いのではないか。そんなことを考える。
「レオニウス様は、本当に王都から迎えが来ると思っていらっしゃるのかしら」
宙ぶらりんの立場と気持ちが、これからの不安と、ひとまずの安堵を行き交いする。少なくとも、今すぐにルキウスへの恋心を完全に捨てなくても許されるらしいと知って、心はだいぶ楽になった。もしも本当にレオニウスと夫婦になるのだとしたら、いつまでも想いを残しているわけにはいかなかっただろう。
「姫様、起きていらっしゃいますか?」
軽いノックの音の後に、小さな桶を片手に持ったラヴィアが部屋に入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう、ラヴィア」
「まずはお顔を洗いましょう。お湯をお持ちしました」
取り出してきた洗面器に、桶から湯を移すと、マルケリアを呼ぶ。手伝われながら顔を洗い、差し出された布で水気を拭った。そのあとに、優しい手つきの手のひらで、化粧水を馴染ませられる。
「辺境では、ドレスではなく、もう少し気楽な服で過ごしてもらえればと思います」
渡されたのは、手触りの良いシュミーズと、くるぶしまである長さの綿のワンピースだった。春らしい若草色のそれを着ると、最後にレースの縁がついた白の上着を羽織らされた。白い靴下と、足元は踵のほとんどない、茶色い布の靴。
ずっと公爵令嬢として、人前に出る時は気を張って過ごしてきた。夜着でもないのにコルセットのない服など、子供の頃以来だ。楽ではあるが、粗相をしているような、どこか心許ない気持ちにもなる。
「朝食をお持ちしますので、少しお待ちくださいね」
戸惑うマルケリアを気にすることなく、ラヴィアはどこまでもマイペースだ。人目のない自室なら、こんな楽な服装でも許されるのよね。そう思って、心細さを振り払おうとする。意味もなく、上着を羽織り直してみたりする。
カラカラという音と共に、ラヴィアが部屋に戻ってきた。ノックの後に扉を開けて、開けた扉を固定すると、再び廊下へ戻る。部屋に入ってきたラヴィアは、たっぷりと料理の乗ったカートを押していた。
「テーブルの上に乗り切るかしら?」
そう言いながら給仕を始める。マルケリアは驚いて目を見開いた。
バターとジャムの添えられたパン。山盛りの茹でたアスパラガス。焼いたベーコンと目玉焼き。そら豆のポタージュ。ボイルしたソーセージと、焦げ目のついた肉。さらに、焼いた魚の切り身が乗った皿までがある。
「こ、こんなに朝から食べられないわ」
マルケリアが言うと、ラヴィアは少し首を傾げた。
「辺境では、朝に一番たくさん食べるのが習慣なのですが……姫様には多すぎましたか?」
「これが、辺境では普通なの?」
「ええ、まあ貴族の食卓としての普通ではありますが。ただ、量は庶民もこんなものですよ。朝のうちに昼間しっかり働けるように充分食べておく、というのが辺境流です。その代わり、昼と夜は簡単に済ませます。——もし多いのなら、食べられる分だけ食べて残してください。次から少し調整しますね」
小さなテーブルいっぱいに乗せられた料理を、マルケリアは途方に暮れた気持ちで眺めた。カップにはシュワシュワとした水が注がれる。
「これは?」
「これはただの炭酸水です。屋敷の深い井戸から汲んでいるので、生でも美味しいですよ。紅茶はお食事が終わったらご用意します」
王都では、炭酸水は作られるものがほとんどだ。天然の炭酸水が出る井戸は、聖泉と呼ばれて神殿が確保している。なので、儀式でしか飲んだ覚えがない。王都とのあまりの違いに、戸惑いが積み重なっていく。
「生水なのが気になるようでしたら、湯冷ましも用意できますが」
「え、いいえ。問題ないわ。ただ、少しびっくりしてしまって。王都では天然の炭酸水は神殿が管理していて、とても貴重なものだから」
「そうなんですか。辺境では、少し深く井戸を掘ると、割と炭酸水が出やすいみたいです。多すぎて、こちらの神殿は管理を諦めているみたいで」
「地下水の源流が多くあるのね」
「森が近いからですかね? それとも、聖なる山のせいかしら? あそこの山頂は、夏でも雪が残っているという噂ですから」
カーテンを開け放った先、窓の外に視線を向けてラヴィアが答える。この城塞都市を囲むようにして、天然の要塞のように聳える山は、辺境では聖なる山と呼ばれているのをマルケリアは思い出した。太陽の神がいるから、人も魔物も入れないのだと言われているらしい。一方で、氷の精霊が住んでいて、侵入者を拒んでいるのだという噂もあるという。
王都では、山には天然の毒ガスか、魔力を帯びた霧が原因で生き物が入れないというのが定説だ。王都では女神アウレスティナを唯一神として崇めているが、辺境には古い神々の威光がまだ残っているのだと昔、聞いた覚えがある。
「レオニウス様もお食事はお一人でされているの?」
「ああ、レオニウス様はこの時期はいつも、騎士団の人たちと食事を共にされています。今年も魔物の繁殖期が始まったので、今日から『森』へ遠征されるため、朝早くに出発されました。間引きの季節は外壁の外の砦に寝泊まりするので、一ヶ月ほどは戻られません」
マルケリアは息を呑んでラヴィアを見つめた。ラヴィアは平然としている。そうだ。北の辺境は魔物のいる『森』から、王国の土地を守るための最前線——城塞都市なのだ。
優しいだけの場所ではないのだと、身が引き締まる思いがした。




